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2015.07.24

哲学者・鶴見俊輔氏死去【追悼企画:インタビュー】

tsurumi  哲学者の第一人者・鶴見俊輔氏が肺炎と心臓の不具合のため死去していたことがわかった。享年93歳。  本紙『不登校新聞』では1999年10月15日にインタビューを掲載。ご冥福をお祈りするとともに当時のインタビューを再掲する。 ――こういう新聞の発行はご存知でしたか?  いや、知らなかった。でも、おもしろいね。  以前から松本キミ子さんの活動はよく知っていて注目してたんだが、この新聞で彼女の最近の消息を知ることができた。いまは、日本にとどまらず、世界にその仕事を広げているんだね。すごいね。彼女もそうだったんだが、産休とか非常勤の先生みたいな、学校の周辺に位置する人たちがいい仕事をしてるね。  それから、メキシコに行って、サパティスタ民族解放軍にめぐりあった大田泉生さんの記事なんか、ほんとうにおもしろい。「登校拒否体験が原点だ」という彼の気持ち、よくわかるよ。 ――最近、『本音を聴く力』(同朋舎刊・角川書店発売)という本を編まれたり、「輪になって語ろう」というKBS京都のテレビ番組で中学生たちと話し合ったりされていますが…  登校拒否は「逃げ」だっていう見方がありますよね。登校拒否は卑怯だし、弱いっていう考え方がありますよね。でも、ほんとうにそうなんだろうか。  「いまの子どもたちは・・・」と、とやかく評定するまえに、子どもの言うことにまずちゃんと耳を傾けてみるべきだね。  テレビ番組で出会った子どもたちは、近所の中学校の生徒たちで、その人選がよかったのかもしれないが、自分でその場で考えられる子どもたちだった。  たとえばね、「家庭で教わることはなんですか?」って聞いたんだ。そしたら、間髪いれずに「バランス」って答えた。すごいね。  たしかに、家庭で学ぶ重大なことはバランスですよ。どこまで甘えられるか、これよりもう少し押し切ると親も怒るかなとか、日常的にそれを感じるわけね。どれくらい勉強さぼれるか、どれくらい遊べるか、いつでもバランスなんだ。それを家庭でつかむんですね。  学校のきまりについて聞いたときにも、「先生も自分たちと同じように守れるきまりを作ってもらいたい」と答えた子がいる。これもすごいよね。これ、数学の集合論を踏まえているんだ。自己を含む集合と、自己を含まない集合との問題なんだ。  マニュアルで教えようとする先生たちに、こういう生徒の声が届くだろうか。 ――先ほどの編著では、子どもたちの学校でのふるまいを、ある種の「学生運動」として とらえるという視点を出しておられますね。 幼稚だと、最初からバカにするんじゃなくてね。そういうことでいえば、大学生の学生運動のほうが、よほど幼稚だよ。小学校で不登校をする子どもとくらべて、大学生の運動が幼稚でないといえますか?  私は、一九六〇年に国立大の教員を辞めて、そのあと同志社大に一〇年いて、機動隊の導入を機会にそこも辞めたんだけど、そのころ学生たちが「大学を解放して真の学問を我らの手に!」なんていう看板を立ててた。  大衆団交の席で、学生たちが私を指名したら、言ってやろうと思ってたんだ。「真の学問を!なんて、あなたがた、そんなことを言ってたらエンマ様に舌を抜かれるよ」って。ところが、学生たちも平生の私の考え方を知っているものだから、私に発言の機会を与えないんだよね。(笑)  学問ということでいえば、むかし、アベグレン(日本の企業経営の特質について最初に言及したアメリカの経営学者)が、私にこんなふうに言ったんだ。「アメリカの核の傘も問題だけれど、自分たちが関係する学会の状況からすれば、むしろアメリカの大学院の傘のほうが問題だ。今の日本の学者・教授たちは、アメリカの大学院で教えられて自分の仕事ができるようになっている。この自覚がないんじゃないか」と言うんだ。  今でも日本の学会はアメリカの学会の掌中にあると言ってもいい。これは、アメリカの学会や教授たちにとってきわめて具合がいいんだ。自分たちの学説をすぐ理解してもちあげてくれるから。私の知る範囲でいえば、逆にアメリカの人文学に揺さぶりをかけることができた日本の学者は、戦後五〇年に一人もいないのじゃないか。アメリカの学会を攪拌したのは、たとえば、『オリエンタリズム』を書いたE・W・サイードです。彼はパレスチナ人ですね。日本からは、彼のような仕事をする人が出ていないですね。 ――義務教育というものが子どもに何をもたらしているか、この新聞ではそこを見つめなおそうとしています。  うん、その認識は私も同じだ。そうなんだよ。あの九年間プラス高校でしょ、その一二年間でもうアウトになってんだよ。そこをがんばり通すと大学に入れるわけだけど、もうそのときには大学のなかで自分を変えることができなくなっているんだね。 ――ご自身の子ども時代にもいろいろあったそうですね。  私は不良少年で、三度学校を退校処分になっているんです。完全に無頼者になってしまって、東京のカフェなどで睡眠薬をのんで、よくひっくり返っていた。オヤジが有力な政治家だったからそうはならなかったけど、当時に『フォーカス』があったら、きっと出たね。スキャンダルになるとオヤジも困るから、それでアメリカに送り出された。あれは流刑だな。(笑)  中学のころに自殺未遂もした。ゴールデンバットを大量に呑み込んだり、腕を切ったり。でも決定打はしないんだよ。  それは、オフクロへのメッセージなんだよね。私のオフクロはものすごく正義感の強い人で、兄弟のなかで私だけが反抗するし、なぜか私のことを異常体質だと思い込んでいて、小さなころから厳しく育てられた。そんな母親でも、私にとっては道徳の規準っていうのがオフクロに植え付けられたものしかないんだから、ダブルバインドなんだ。すごくきついのは、そんなオフクロを私が愛していたってこと。  アメリカに渡ることで家から自由になりましたね。でも、それは何もアメリカなんかに行かなくても、ひとまず家から完全に自由になることさえできれば、それでよかったんです。 ――ご自身のこれまでをふりかえられて何か・・・  何度も自殺未遂を図ったり、戦中のアメリカで投獄されたり、負ける側につこうと日本に帰ってきたり、それはいろいろあったけど、わたしの人生でやってよかったと思うことがふたつある。どちらも、あの「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」の運動から出てきたものでね。  ひとつは、いまお話しているこの部屋で編集してたんだが、雑誌『朝鮮人』の発行。朝鮮半島からさまざまなかたちで日本に密航してくる人たちを捕まえて北九州の大村収容所に入れてた。飯沼二郎の首唱で、この収容所の廃止を目的に雑誌を出し始めて、目的を達して二七号でやめた。この間に在日朝鮮人をはじめ、いろいろな人に出会って、ずいぶんと多くのことを学んだ。  いまひとつは、ベトナムの戦線から脱走してきた米兵への支援運動。  小田実って、おもしろい。佐世保に米艦が来るといえば、飛んでいって、最初はヘリコプターを借りて艦上から反戦のビラを撒こうとした。ところが、ヘリコプター会社が承知しない。それで諦めるのが進歩的知識人なんだが、小田は「腐ってもタイ」だね、こんどは漁船をチャーターして、航空母艦の周囲をまわって、メガホンで「ベトナム戦争やめろ!脱走しろ!」ってやったんだ。  そしたら、ほんとうに脱走兵が出た。で、出てきたら匿って、身の安全を守らなきゃならない。そのとき、アメリカ人の反戦牧師というか、地下牧師がいて、私たちに知恵をつけてくれた。「良心的兵役拒否者」として脱走兵を軍法会議から守るわけだよ。そのためには、ある種の宗教会議を開いて、いろいろと証言を得なければいけない。そのときのやりとりからも、私たちは多くのことを教わった。  脱走兵というのは、だいたいね、不登校の子どもと同じなんです。全学連の指導者みたいに理路整然と反戦の根拠を述べ立てる人間はあまりいないんです。  一人いた。けれども、彼はスパイだったんです。そのために本物の脱走兵が捕まるということもあった。理路整然というか、理論というものは、かくも危ういものですよ。  かつての日本でも、東大を首席で出るような理路整然とした者が、軍国主義の時代になると別の立場の指導者になっちゃうでしょ。その程度のものですよ。  本物の脱走兵というのはそうじゃない。言葉足らずで、なかなか要領をえない。それで困ったこともずいぶんあるけれど、しかし、その経験は大きかった。  このふたつは、自分の一生のなかで重大な運動で、そのために生きてきたと言ってもいいんです。 ――最後になにか  京都の町のなかを、坊さんが「あーうー」ってうなりながら通るでしょ。「あーうーの坊ちゃん」って、私も子どもも、とてもよろこんで駆けて見に行ったんだけどね、あれは気分の交換なんだよ。それはとても重要なことだよ。  あなたがたの話を聞いていても、不登校の子をもつ母親が集まるところには、この気分の交換があるんだね。それは子どもたちに間接的に働きかけることになっている。それは重大なことで、けっして理論じゃない。母親たちが、自分の経験に照らして、自分のパーソナリティをひろげるということがたいせつだと思う。  どんな運動でも、少し大きくなるとマニュアル主義に陥ってしまう。そうならないようにね。 ――ついつい長居をしてしまいました。ありがとうございました。(大阪支局:福村・山田) (つるみ・しゅんすけ)   1922年東京生まれ。東京高等師範附属中学卒業後、ハーバード大学にて哲学を学ぶ。戦後、丸山真男らと『思想の科学』を創刊。60年安保では東京工大教授を辞職し、「ベトナムに平和を! 市民連合」にて、反戦平和運動で活躍した。著書は『学ぶとは何だろうか』(晶文社)、『戦時期日本の精神史』(岩波書店)、『鶴見俊輔集』(筑摩書房)など多数。 1999年10月15日 不登校新聞掲載