最新号トピックス

2011.04.25

保坂のぶと氏 世田谷区長当選

4月24日、東京都・世田谷区長選挙が行われ8万3983票を獲得した保坂のぶと氏が当選した。保坂氏は中学生時代、学生運動の経歴などを書かれたために受験した高校を不合格となり、千代田区教育委員会を相手取り提訴(内申書裁判)。判例は現在も重要判例として認識されている。また、管理教育について疑問を呈した「学校解放新聞」を発行するなど、子どもの側に立った教育ジャーナリスト活動、市民運動を展開。衆議院(3期)時代は、教育基本法、共謀罪、死刑制度など幅広い分野で質問。「国会の質問王」と呼ばれた。本紙にはコラム、インタビューなどで登場。2003年9月21日に「登校拒否を考える会」が主催して行なった保坂展人さんの講演抄録をアップする。 ●内申書裁判  私は中学校から高校に進学する際、内申書に書かれた内容のため、受験で落とされたことがあります。内申書には「決められた校則を平然と無視し、禁止されているビラの類を発行し続けた。教師の説得をちっとも聞かず、たいへん手を焼いた」といったことが書かれた。1971年のことでした。  その後、この件は裁判で争い、7年後の一審判決では私が全面的に勝ちました。しかし高裁判決では敗訴し、最高裁判決でも負けてしまいました。  しかし、判決では負けましたが、この裁判を通して、内申書に「この生徒は気に入らないから落としてしまえ」というようなことは書けなくなった。日本中の学校現場で、そういうフリーズがかかったわけです。それから、内申書の公開という議論を呼び起こして、情報は誰のものかが問われるようになった。ですから判決では負けましたが、社会的な効果においては、主張を実現することができた裁判だったと言えます。 ●自分の意見を言うと  私が通っていた中学校は、麹町中学校という進学校で、小学校ののびのびした空気とはまったくちがいました。中学校に入ってすぐ、教師から「君たちは“受験”という二文字にすべてを捧げなくてはならない」「やる気のない奴は後ろに行け」と言われ、一番前のかぶりつきの席にいたのが僕でした(笑)。そういうふうだから、1~2カ月もすると、多くの子が、もう世の中まったく面白くないというように表情が悪くなっていく。僕も成績がどんどん落ちていきました。  しかし、そのころは、むさぼるようにいろいろな本を読んでいました。それで、学校の言うことを全部受けいれて消化するようなことでいいのか、と思うようになりました。  あるとき、国語のテストで出題の選択肢を選ばず、自分の意見を書いたら、大きなバッテンがつけられ、よけいなことを書いているからマイナス20点だと言われました。そこで僕は模造紙を買ってきて、その答案用紙を教室の壁に貼りつけ「こんなテストをやってるから、みんな小説がきらいになるんだ」と書いたんです。それは本校はじまって以来の珍事として問題になった。  その後、自作の新聞を発行したり、「中学全共闘」なんていうのをつくったりしましたが、僕は非常に気が小さくて、本当におとなしい少年だったんです。自分が学歴社会のエリートコースを踏み外すというのは、絶対にできないだろうと思っていました。  しかし文化祭のとき、ちょっとしたイタズラをしたのがきっかけで、中学3年生の1年間は、授業に出してもらえなくなりました。 ●高校は自由だったが  その後、内申書のために受けた5つの高校を落ちたわけですが、都立新宿高校の定時制に、かろうじて入ることができました。しかし高校でも、授業は受けませんでした。新宿高校はとても自由だったので、生徒会でロックコンサートをやったり、山本義隆(元東大全共闘議長)を呼んだり、やりたい放題にやっていました。女子生徒が亡くなる事件が起きたときは、学校にテントを張って1カ月半も住み込んだり、問題提起をして、全校で話し合ったりしました。  しかし、ちょうどそのころ、連合赤軍事件があったんです。これは衝撃的でした。学生運動も先鋭化して、仲間どうしで殺しあうようなことになっていた。その時点で、こういう学生運動をこれからやっていっても先はないな、と思ったんです。それまでは、どこか学生運動に乗っかって、学歴社会やふつうの生き方を否定しようとしていた。しかし、それが信じられないとなると、どうしたらいいかわからない。それで、学校をやめたんですね。  そのころは、非常に苦しい日々でした。なんだか全部、調子が狂ったんですね。ばちっ! と切れちゃった感じです。たった一人になってしまった。 ●一審に勝って  ですから、裁判で証言をするというのは、唯一の自己確認で、自分がどこに立っているかを確かめる作業でもあったなと思います。裁判では、その時代の中学生がなぜそんなことをしたのかを記録に残したいと思って語りだしたんですが、それに対して裁判官は、異例なほど時間を割いてくれたんですね。結局、3回にわたって合計6時間、いまみたいな話をした。  そして、一審では「この少年は若い時期にありがちな誇大妄想はあったにしても、問いかけを持って学校教育のなかで発言していただけで、それが校則に触れていたとしても、言論の自由・表現の自由を知らせるわが国憲法の権利は保護されている。したがって、学校はまちがっていた」という判決が出たんです。これには、びっくりしました。  判決後、各地から手紙がたくさん来ました。なかには「保坂さんが麹町中学で言っていたことは、いま私の身のまわりで起きています」というものもありました。それがいじめだったり、校則だったり、体罰の話だったり……その手紙の束を見たとき、僕はやっぱり、その裁判をやってよかったと思った。僕が学校でぶつかったことは、ひょっとしたら日本中の小・中学生に広がっているのではないか。僕は僕の体験を持って、小・中学生の声が聞けるんじゃないか、と。  そのころ、月刊『明星』と『セブンティーン』という二つの雑誌で取材活動をはじめて、何か事件が起こればすぐ飛んで報告をするということをやっていました。  たとえば戸塚ヨットスクールでは、リンチによって3人の少年が死に、2人の子どもがフェリーから飛び込んで消息を絶ちました。それでも校長の戸塚宏はヒーロー扱いされた。「登校拒否の子は人間じゃない。人間じゃないから人間にしてやってるんだ」というようなことを平然と言っていました。僕は、実際に戸塚ヨットスクールに行って、そこで寝起きしている子どもや逃げてきた子に会って話を聞きました。 ●いじめ自殺事件  そして時代はさらに混迷を深めていき、86年、東京中野区の富士見中学で鹿川裕史くんが自殺をするという事件がありました。「お葬式ごっこ」などのいじめがあって、「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という遺書を残して、盛岡駅で自殺したんですね。そして、亡くなる1時間前に彼が買った本のうちの1冊が僕の本だった。それは、「いじめで死んではだめだ」ということを書いた本だったんですね。  僕は「いじめで命を絶つな」ということを、『明星』の誌面を通して訴えました。そして、大勢の若い人から、「自分も今、苦しんでいる」という便りをいただきました。 ●いじめには119番を  94年、僕は交通事故に遭って救急車で病院に運ばれました。今ここに立っているのが不思議なくらいの重傷でした。  ちょうどそのころ、大河内清輝くんのいじめ自殺事件があって、7年前の鹿川くんのときと同じことがくり返されたわけです。  そのとき、僕は「これは119番が必要だな」と思ったんです。そのころ「いじめ110番」とよく言ってたんです。しかし110番というのはよくない。ケガで横たわっているときに、どっちが悪いんだと言っていても、本人は困る。まず救出することが大事だ。僕は自分がベッドに横たわりながら、そう思いました。  そういう話をNHKの『クローズアップ現代』で話しました。「子どもたちがいよいよとなったとき、どうやって命を救うシステムをつくっていくのかを本気で考えようじゃないか」と。そうしたら、これも反響がすごくありました。 ●チャイルドラインの発見  もう一つ、入院中の収穫がありました。ニュースでイギリスのいじめの現状を取り上げているのを見て、僕は直感的に、ここに行けば絶対何かあると思ったんです。そして1カ月後にロンドンに行ったんです。  行ってみると、日本と変わらない状況があった。学校の保守的な秘密主義、いじめを受けて追いつめられ、人が信じられなくなったり、ものが食べられなくなったり……そういう話がたくさんあった。そのときに見つけたのが、チャイルドラインというイギリスのホットラインだったんです。イギリス全土にネットワークがあって、認知度が非常に高い。アンケート結果では、本当に困ったときに相談する対象の1位が友だち、2位がお母さん、3位がチャイルドラインでした。  退院後、世田谷区議会で僕はチャイルドラインの話をして、地域で民間グループが呼びかけて一大論議をしようじゃないかと呼びかけたんです。そこから「世田谷こどもいのちのネットワーク」が生まれ、500人以上の地域の親や子どもたちが集まって、その問題について徹底的に議論しました。  チャイルドラインについては、議員になってからも国会で質問をして、「ぜひ日本全国でやりましょう」と呼びかけました。その後、これは“連立与党合意”に入って、超党派の議員連盟ができたり、NHKでチャイルドラインをやったり、動きは広がっています。現在、チャイルドラインは全国各地に40団体ぐらいに広まっています。 ●国会議員になって  国会議員になったのは96年のことです。それまでフリージャーナリストとして、いろんな問題を書き訴えてきました。でも、実現したことはそんなにありません。それが国会議員として活動することで、制度を変えることができる。それで、いろんな問題に取り組んでいきました。  国会議員になって、はじめて不登校の問題に取り組んだのは、児童福祉法改正の問題です。教護院が児童自立支援施設に変わるというとき、不登校の子どもが対象とされるのではないかという話がありました。そのとき驚いたのは、当事者の子どもたちがたくさん来たことです。なかでも、15歳の子が自分たちで厚生省の課長にアポイントとって会いに行っちゃったことにはびっくりしました。これは霞ヶ関の歴史がはじまって以来のことだそうです。  不登校の子っていうと、世間では偏見がありますけど、子どもたちがイキイキと走りまわっていた。しかも自分の意見をばんばん言う。そういう意味で、この運動は二重三重の効果がありました。  そのほか、「児童虐待防止法」や児童福祉施設の問題など、子どもをめぐる問題に取り組んできています。 ●子どもを大事に  社会はフリースクールのような場ができたり、ずいぶん変わってきました。しかし、一方では相も変わらず、子どもが大事にされていない。社会がこれだけ閉塞感に満ちているのは、未来を荷う子どもたちを大切にしていないからです。  表看板では、日本は進学率も高く、子どもは恵まれていると思われるかもしれない。しかし一番つらい立場の子どもが、どういうふうに扱われているのか、人として尊重されているのか、といったとき、まだまだこれは大きく変えなきゃいけない。  僕が中学校を卒業してから、これだけいろいろ声をあげ、国会で活動し、訴えてきたようなことを、ルートに乗ってきた人はあんまり考えてないんですね。  ですから、今後も、とにかく子どもの側に立って動いていきたいと思っています。(抄録) ■保坂のぶとコラム「子どもの現在」