最新号トピックス

2013.03.25

根強い体罰容認の世間はなぜ

 32年間、わたしが教員として勤務した2つの職場は、いずれも工業高校の定時制課程だった。生徒間のけんかはよくあった。生徒が教員に喰ってかかったり、暴行におよぶこともままあった。けれども、わたしの目が届くかぎりでは、教員が生徒に「体罰」を加えることは部活動をふくめてもなかったと思う。

定時制高校の夜学生たちは

 全日制高校から転勤してきたばかりの若い教員が、黒板に背を向けて私語をつづける生徒の後頭部を出席簿で軽くこづいたときのことだ。生徒はすかさず教員の手から出席簿を払い落として、「にいちゃん、ひとの頭をなんやと思うてるねん!」と怒気するどくつめよった。「教師に向かってその態度はなんだ!」と応じたものだから両者でとっつかみあいの大騒ぎになる。仲裁に入った生活指導部では、生徒への注意よりも、転勤してきた若い同僚への「カウンセリング」により多くの時間を費やした。「たたかれても黙っていた前任校のフルタイムの『教え子』よりも、すでに勤労市民でもあるパートタイムの夜学生のほうが、そのうちにきっと好きになります。ここの教員はみんなそうです」と異口同音に励ましたりもした。

学校に行かない子と親の会・大阪世話人代表・山田潤

 そういう教職員集団のなかで教員生活を終えたものだから、関西の有名私大で学生と接するようになって驚いた。ある種の定型的な思い込みが、かなり多くの大学生に共有されていることにいやでも気づかされたのだ。まとめて言えば、次のようになる。

「体罰だ」とすぐ騒ぐ?

 昔の教師には威厳があり、体罰もあたりまえのようにあった。最近は世間一般に子どもに甘く、教師がちょっと手をあげただけで「体罰だ」と騒ぐものだから、子どもにきびしい教育指導ができなくなっている。体罰を封じられた教師をなめてかかる子どもも増えていて、それが小学校での学級崩壊や中学校の荒れを招いている。ゆきすぎた体罰は問題だが、口で言ってもわからない子どもには手をあげてでも教え諭さねばならない場合がある。  こうした思考パターンに、中学校から高校にかけて体育系の部活動にうちこんできた学生たちの積極的な体罰肯定論や「愛のムチ」論までが加わると、体罰はだめと言い切る学生の声はほとんどかき消されてしまうと言ってもよい。  大阪市立桜宮高校で起きた「体罰」事件がこれだけ大々的に報じられている渦中であっても、毎日新聞が行なった世論調査では、「『(体罰は)いっさい認めるべきでない』との回答が53%と半数を超える半面、『一定の範囲で認めてもよい』との容認派も42%を占めた」と言う。男性だけでみると容認派が54%で逆転するとも伝えている(同紙2月4日朝刊)。  わたしの憶測を率直に述べれば、教師がちょっと手をあげただけで「体罰だ」と騒ぐような世間は、現在の日本には存在しない。それを言うなら、わが子に対する理不尽な仕打ちにいたたまれずに声をあげた親を孤立させ、「学校の評判をこれ以上傷つけるな」と黙らせようとする世間のほうが断然に優勢だったのである。ほんのつい先ごろまで。  桜宮高校の場合でも、クラブ活動の停止がこのまま長引けば、競技大会に出場できない在校生が大学推薦の要件を逃しかねないと心配する声が早くから保護者や学校関係者のあいだに広がっていた。「スポーツ強豪校では多少の体罰はあたりまえ」という、つい先日までの世間の通り相場が、今ようやく公言がためらわれるようになっている。その功労者が橋下大阪市長であったからといって、思考を停止してはいけないと思う。学校教育をよりきびしい競争において再構築しようとするグローバルな勢いが働きつづけているかぎり、「体罰」を容認し、待望しさえする世間は明日にでもかんたんに失地をとりもどすであろうから。