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2009.01.19

第11回「社会の中の精神現象」 高岡健

光市母子殺害裁判(上)

 光市母子殺害事件の公判が、大詰めを迎えている。まず、この事件の経緯を整理しておくなら、次の通りだ。  「元少年」と報道されることの多いAは、1981年に山口県光市で生まれた。Aが中学生のころ、父親から暴力をふるわれ続けた母親は自殺し、その後、父親はフィリピン人女性と再婚した。高校を卒業したAは、水道設備会社に就職した直後の1999年4月14日に、同じ団地に住む主婦と赤ん坊を殺害した。逮捕された当時18歳のAは、一審と二審で無期懲役の判決を受けた。しかし、2006年6月に最高裁が二審判決を破棄し、審理を差し戻す判決を下したため、現在は広島高裁で公判が継続されている。  Aが逮捕された直後から2002年の二審判決まで、この事件はかならずしも大きく報道されていたわけではなかった。それなのに、なぜいま極刑にせよとの大合唱が、メディアに鳴り響いているのだろうか。  私は以前、『週刊朝日』の座談会で、被害者遺族の本村洋氏と話したことがある。私の記憶にまちがいがなければ、死刑判決を望む気持ちの中には応報感情があることを否定しないと、本村氏は述べていた。テレビのインタビューでも、同じ内容を語っていたはずだ。正直な心情の吐露だと思う。仮に同じ立場に置かれたなら、私もまた同様の感情が湧いてくるにちがいない。しかし、はっきり確認しておくべきことがある。それは、個人の応報感情がどれだけ多く集まったとしても、それを国家意思にしてはならないということだ。そうなると法治国家の裁判は宗教裁判へと退行し、ついには私刑(リンチ)を認めるしかなくなってしまう。そうなって喜ぶのは国家だけだ。  現在の日本国家は、新自由主義の導入によって、人々を息の詰まるような競争へと追い立てている。その結果、人々の不満が国家へ向かうと困るのだ。だから、国家以外の誰かを生贄にして、不満の方向をそらさねばならない。犯罪の加害者は、生贄としては絶好の存在ということになる。極刑の合唱が高まれば高まるほど、国家は後ろで微笑をうかべているだけでいいというわけだ。  ところで、被告であるAが語ったとされる「僕は死刑になってもしかたがない。来世に行って先に(本村洋さんの妻の)弥生さんの夫になる可能性があるが、そうなると洋さんに大変申し訳ない」という言葉は、私には衝撃だった。被害者の遺族が望む極刑が実現したなら、被害者と加害者は死者として平等だ。彼岸で二人が結ばれても、此岸に住む遺族は手をこまねいて見ているしかない。つまり、現世に生きているかぎり、遺族は嫉妬心に苦しみ続けることになるということだ。  不当というしかないが、Aの言葉は、応報感情を相対化させる力を持っている。少なくとも、私が抱くかもしれなかった応報感情は、急速に冷えていくことになる。 著者プロフィール (たかおか・けん)1953年徳島県生まれ。岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。専門は児童精神医学、総合病院精神医学、精神病理学。精神鑑定についても造詣が深い。著書に『引きこもりを怖れず(ウェイツ)『人格障害論の虚像』(雲母書房)など多数。 ※2007年9月1日 Fonte掲載