最新号トピックス

2009.08.24

第6回 向谷地生良「日々発見」

◎孤独が奪うもの…

 しばらく高校を休学している少年の家族からSOSの電話がありました。少年の家族への反発やいやがらせに困り果て、少年を残して家族が全員、近くの知り合いの家に避難したというのです。少年が、避難している家族のもとにかけてくる電話の向こうからはガシャン!、バリン! という家具を破壊する音がひっきりなしに聞こえ、恐怖に駆られた家族は、電話に出ないまま、眠れぬ夜を過ごしました。  翌日私は、少年が篭城している家に駆けつけ、経過をうかがったあと家のなかに入りました。私も30年以上現場で仕事をしていますが、これほど破壊された家は初めて。緊張が走りました。「助けに来たよ!」そう声をかけると2階に人の気配がしてゆっくりと無言のまま少年が降りてきました。小柄ないがぐり頭の幼そうな顔立ちの少年でした。「おはよう! いや、大変だったな! もう、大丈夫だよ!」 そう言って少年の肩に手をやり、ガラスや壁の破片が飛び散る居間で少年と立ち話をした。私の後ろから、距離をとりながら恐るおそるついてきた母親も、ようすをうかがうようにそっと入り口に立っていました。「昨日、何十回もお母さんに電話をかけたようだけど、何を話したかったの?」。すると少年は言いました。「誰かに止めてほしかったから……」。そうなのです。この惨状は、誰よりも少年自身がもっとも望まない受け入れがたい現実なのでした。つまり、この少年は、家を破壊したのではなく“させられた”のです。先般の秋葉原の事件を起こした青年の語った言葉のなかにも、同じように「誰かにとめてほしかった……」という供述があります。そして、あの忌まわしい小学生に乱入し子どもを次々に殺傷し、後に死刑になった青年が接見した臨床心理士に事件の最中の心境を語る言葉を残しています。「……誰か止めてくれと思ったが勢いがついて止まらず、最後に羽交い締めにされて、やっと終われると思った……」と。  べてるの家の活動に参加しているメンバーの多くは自己病名を持っています。そのなかに「自分のコントロール障害」があります。その背後には、自分という存在に対する疑いと絶対的な孤独感があります。その存在確認の方法として、自傷行為をし、人から浴びる非難も自分の存在を知らしめる手段となるのです。孤独は、自分が自分という人間の主人公であることをやめさせ、“人と人とのつながり”という生命線を獲得する最後の手段が「暴力」となるのです。それは、人は一人では生きて行けない存在だからです。アウシュビッツの体験を記したフランクルの「夜と霧」の中にも、飢餓のなかで、人が規範を失い、人の命を奪ってまでも自分の食料を手に入れようとする人たちが描かれています。生きるためにです。では、将来ある青年たちに「生きるために、人の命を奪う」というあまりにも悲惨な役割を“強いた”のは誰なのでしょうか。そう考えたとき、あの青年たちも、確実に一人の犠牲者であるような気がしてなりません。 プロフィール……(むかいやち・いくよし)。ソーシャルワーカー。84年に精神障がいを経験した当事者らともに社会福祉法人「浦河べてるの家」を、北海道浦河町に設立。著書に『安心して絶望できる人生』(NHK出版)など。 ※2008年7月1日、Fonte掲載