最新号トピックス

2008.12.29

第8回「社会の中の精神現象」 高岡健

臓器移植法改正案(下)

 2つの臓器移植法改正案のうちの斉藤案は、脳死下での臓器移植を、子どもへと拡大しようとするものだ。しかし、子どもを脳死と診断するための基準に対しては、根底的な疑義が提出されている。2005年の日本児童青年精神医学会で、小児科医の杉本健郎氏は、脳死の診断基準を満たした小児例でも身長が伸びるといった理由を挙げ、診断基準は「広汎かつ重篤な脳の壊死を正確に予測」していないと指摘していた。平たく言えば、脳は生きているのに、診断基準によれば死んだと判定されてしまうということだ。  海外における脳死の診断は、日本よりもっと粗雑だと言われる。「〈脳死〉米国・カナダで判定の3人、日本帰国後に意識回復」という毎日新聞の記事によると、米国では頭部外傷で脳死と判定された男性が、自発呼吸をしていたにもかかわらず、そのまま臓器を摘出されてしまった。また、米国・カナダの判定では脳波を測定せず、とくにカナダでは病院ごとに異なった判定基準をもうけているという。  これでは、ドナー(臓器提供者)もレシピエント(臓器被提供者)も、生きたままの状態で臓器が、やり取りされる可能性を織り込んだうえで、自らの意思を決定するしかなくなる。そうであるかぎり、私なら、わが子をドナーにもレシピエントにもできない。  それでは、もし完全な脳死判定が可能であるなら、わが子をドナーやレシピエントにできるだろうか。映画『ジョンQ』は、白人の子どもへの移植を優先させる現実に対しての異議を、病院の占拠というかたちで提起した作品として知られている。しかし、私が注目するのは、この映画の冒頭に描かれた、交通事故のシーンだ。わが子への移植を願う親は、新鮮な臓器が得られるよう、誰かの死を待ち望んでいる。残酷な言い方になるが、映画のシーンは、そのことを暗示している。お前は不治の病いを持つ子の親でないからキレイごとが言えるのだろう、という声が聞こえてくる。だが、いくら考えても私は、わが子の死を待ち望んでいた人たちのために、わが子をドナーにするつもりはない。  さて、幸か不幸か、レシピエントとして他者の臓器を受け入れた子どもがいたとするなら、その子どもは成長するにつれて、どうなっていくのだろうか。『ジョンQ』を見ようが見まいが、ある時期から子どもは悩み始めるだろう。自分の親は、誰かの死を願い続けていたのではないか。自分にもう少し考える力があったなら、誰かの死を望まなかったはずだ。物事を真剣にとらえようとする子どもほど、そう考えて苦悩するだろう。それが、わが子をレシピエントにしない理由だ。  理論的・抽象的問題を解決する能力は、およそ12歳から発達を開始し、15歳くらいで一通りの完成をみる。そのあいだ、大人は子どもに対し、その年齢にふさわしい言葉で説明しなければならない。もちろん、説明には悪い情報も含まれるべきだ。そのような説明を排した美談は、子どもの思考を停止させることと引き換えにしか成立し得ないのである。 著者プロフィール (たかおか・けん)1953年徳島県生まれ。岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。専門は児童精神医学、総合病院精神医学、精神病理学。精神鑑定についても造詣が深い。著書に『引きこもりを怖れず(ウェイツ)『人格障害論の虚像』(雲母書房)など多数。 ※2007年7月15日 Fonte掲載