最新号トピックス

2008.12.22

第7回「社会の中の精神現象」 高岡健

臓器移植法改正案(上)

 2007年6月20日に、臓器移植法改正案が審議入りし、衆院厚労委に小委員会が設置された。次期国会で成立させる狙いがあるという。改正案として提出されているのは、次の二つだ。第一に、脳死者が生存中に拒否の意思を示していないかぎり、遺族の承諾により臓器を摘出できるようにする中山太郎(自民)案。第二に、臓器提供の意思表示ができる年齢を15歳から12歳へと引き下げる斉藤鉄夫(公明)案。  中山案は、ドナー(臓器提供者)の数を増やすことを目的としている。だが、この案によって脳死下の臓器移植が激増することはないと、断言していいだろう。なぜなら、脳死下の移植は、ドナーとレシピエント(臓器被提供者)がたがいに異なった共同体に属していることを、原則とするからだ。この原則について、少しくわしく述べてみよう。  1988年に、日本精神神経学会は「現段階では脳死容認に対しては否定的見解を表明せざるを得ない」とする声明を発表した。そもそも同学会が脳死問題にとり組むようになったのは、筑波大学における膵腎同時移植に際して、精神障害者と思われる者がドナーとされ、家族の承諾のみで脳死とされた状態での臓器摘出が実施されたことを、契機としていた。共同体の内側にいるレシピエントと、外側に排除されたドナーという構造が、あきらかといえよう。  反対に、同一の共同体に属する者どうしのあいだでは、臓器のやり取りは難しくなる。吉田修一の小説には、「死んでからも生き続けるものがある」という臓器移植の広告を見た男女が、「ぞっとしませんか」「不気味な感じするよね」と語り合う場面がある。つまり、共同体内で「生き続ける」臓器があるかぎり、死者は共同体の外へ退場することができない。それを不気味とする、まっとうな感性が描かれていることになる。他方、もし同じ共同体に属するドナーから臓器を提供されたなら、レシピエントは「生き続ける」臓器の善意を背負うことになる。善意を背負ってしまったレシピエントは、その責任ゆえに、小さな悪事さえ働くことができなくなる。これは、想像以上の重荷を、レシピエントに与えるはずだ。  不気味でも重荷でもない脳死移植があるとするなら、共同体の内外でのやり取りしかない。脳死者からではないがアジアにおける臓器売買や死刑囚からの移植が跡を絶たないのは、このような理由に拠っている。  ところで、私はドナーになるつもりもなければ、レシピエントになるつもりもない。なぜなら、脳死を人の死と考えないからだ。脳が人間を司るものではないと考えているから、と言い換えてもよい。脳を移植された鳥のキメラは拒絶反応のために死んでいくと、免疫学者の多田富雄は記していた。そうだとすると、生命存在は、脳ではなく胸腺という臓器が司っていることになる。このような皮肉な現象を前に、私たちが容認できることがあるとするなら、人工臓器の開発だけだ。誤解を恐れずに言えば、人工臓器が普及した暁には、移植は野蛮な時代のエピソードとして語られることになるだろう。 著者プロフィール (たかおか・けん)1953年徳島県生まれ。岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。専門は児童精神医学、総合病院精神医学、精神病理学。精神鑑定についても造詣が深い。著書に『引きこもりを怖れず(ウェイツ)『人格障害論の虚像』(雲母書房)など多数。 ※2007年7月1日 Fonte掲載