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2009.02.23

第16回「社会の中の精神現象」 高岡健

神戸市いじめ自殺(下)

 神戸市いじめ自殺事件の被害者と荷担者は、外部からは見えにくい小集団を組んでいた。そして、個人が小集団の犠牲となっていった。しかし、学校の中で、個人が集団に隷属することによる悲劇は、彼らが開始したものではない。  少なくとも、その起源は、彼らの親の世代にまで遡ることができる。  17歳と18歳だった神戸事件の親たちは、おおむね40歳代のはずだ。すると、1970年代に、小学校に在籍していたことになる。そのころの学校の姿は、『滝山コミューン一九七四』という本に、典型的に描かれている。  東京都の滝山団地にあった第七小学校では、すべての児童が班に分けられ編成されていた。班は、「ひとり」が「みんな」とつながる単位だと位置づけられていた。また、班どうしは競争を強いられ、負けた班では誰かが責任をとらされた。一口にいえば、旧ソ連型の集団主義教育である。  班を単位とする集団主義教育は、滝山団地の第七小学校ほどではなかったにせよ、やや薄められた形でなら、日本各地で行なわれていたのではないか。そう考えて私は、1970年代に小学生だった人たちの幾人かに、尋ねてみたことがある。すると、やはりそうだったとの答えが返ってきた。こういう中で育つと、集団を個人よりも優位に置く発想から、逃れ難くなるだろう。  滝山第七小学校に代表される旧ソ連型教育は、いじめと不登校の出現により、消滅したと言われる。はたしてそうだろうか。一方では、集団主義教育を受けた子どもが後に教師となることによって、他方では、彼らが親になることによって、今日まで連綿として続いているのではないか。  そうだとするなら、神戸市いじめ自殺事件の被害者や荷担者にも、集団を個人よりも優位に置く考え方が、浸透しやすくなっていたことになる。そのために、悲惨ないじめが生じた。ちがいは、そこに方法としてのネットが、介在していたかどうかだけだ。だから、この事件は、ネットいじめ事件と呼ばれることがあったとしても、何ら新しさをもっていない。  ちなみに、『滝山コミューン一九七四』で、集団主義教育のいかがわしさを鋭敏に感じ取っていた児童は、著者自身を別にするなら、たった一人だった。  グランドピアノのある、「アメリカ資本主義の香り」に満ちた家庭の女子児童が、「学級会で班を作ることになったとき、これは行ったら大変なことになるという気がして」、林間学校を欠席したのだ。女子児童の母親も、欠席を支持した。 こういう人たちの血脈だけが、いじめを生み出す状況を終わらせることを可能にする。いつでも集団を離れうることが、倫理である由縁だ。 著者プロフィール (たかおか・けん)1953年徳島県生まれ。岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。専門は児童精神医学、総合病院精神医学、精神病理学。精神鑑定についても造詣が深い。著書に『引きこもりを怖れず(ウェイツ)『人格障害論の虚像』(雲母書房)など多数。 ※2007年11月15日 Fonte掲載