最新号トピックス

2009.02.16

第15回「社会の中の精神現象」 高岡健

神戸市いじめ自殺(上)

 神戸市須磨区の私立高校における、男子生徒の飛び降り自殺事件が、注目を集めている。  生徒のポケットに入っていたA4判3枚のメモには、「罰ゲームで金がたまる一方、もう払えん」「下半身の写真をインターネットサイトに掲載された」などと、記されていたという。この件では、少なくとも3人の少年がいじめに関与したとされ、恐喝未遂容疑で逮捕されている。  ここで気になるのは、「少年らと被害者は大のなかよしで、恐喝の加害者と被害者という関係にあったとは考えられない」という、付添人弁護士の言葉だ。大のなかよしとは、本当のことなのか。  恐喝の加害者と被害者という関係でなければ、何だったというのだろうか。報道を読むかぎりでは、自殺した生徒と逮捕された少年がフットサル同好会に所属していたという以外、何も明らかになってこない。  いじめとは、集団のなかの多数が一人を生贄にして、集団を維持しようとする現象だ。そして、以下の三条件が揃えば、どのような集団にもいじめは発生する。  第一に、集団が閉じられていること。第二に、集団の価値観が社会の価値観とかけはなれていること。第三に、集団の勢いが下降線をたどっていること。現在の日本に関するかぎり、この三条件をもっとも満たしやすい集団が学校であることは、いうまでもない。  このような基本構造には、バリエーションがありうる。それは、学校という集団の内部に、もう一つの閉じられた小集団が形成される場合だ。多くの場合、その学校の共同性に根底的なところでなじめず、かといって学校を離脱することも思い浮かばない生徒が集まって、閉じられた小集団がつくられる。こうなると、小集団のなかで何が起きているかを、外部からうかがい知ることは難しい。さらには、小集団の成員が大のなかよしであるかのような、錯覚さえ生じさせるようになる。  いじめ事件に際して、しばしば被害者と加担者が仲間どうしだと思っていたとのコメントが、学校関係者から発せられるのは、それが言い訳でないかぎり、右に述べた理由に基づいている。神戸市いじめ自殺事件の付添人弁護士は、こういうバリエーションがあることに、気づいていないのではないか。  急いでつけ加えておくが、だからといって私は、付添人弁護士を懲戒処分にせよなどと、呼びかけているわけではけっしてない。一人の弁護士を圧殺するために、その種の行き過ぎた大合唱が始まれば、それはいじめと何らかわるところがないと思うからだ。  議論は個人と個人とのあいだで交わされるか、集団対集団としてたたかわされるしかない。個人と集団とのあいだの対立局面では、つねに個人を無条件に擁護することが、揺るがせることのできない倫理原則である。 著者プロフィール (たかおか・けん)1953年徳島県生まれ。岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。専門は児童精神医学、総合病院精神医学、精神病理学。精神鑑定についても造詣が深い。著書に『引きこもりを怖れず(ウェイツ)『人格障害論の虚像』(雲母書房)など多数。 ※2007年11月1日 Fonte掲載