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2009.02.02

第13回「社会の中の精神現象」 高岡健

少年調書漏示出版(上)

 奈良県の医師宅放火殺害事件を題材にした書籍の著者に、供述調書を提供したとされる精神科医宅が、秘密漏示容疑で捜索を受けたと報道されている。  奈良放火殺害事件とは、2006年6月に、進学高校に通う当時16歳の少年が、自宅に放火して継母と義弟義妹の三人が死亡した事件を指している。また、書籍とは、草薙厚子氏が執筆した『僕はパパを殺すことに決めた』である。  マスメディアを含め、ジャーナリズムの側の反応は、どちらかというと同容疑での捜索に批判的だ。たとえば、毎日新聞社説は「強制捜査まで必要なのか」と疑問を投げかけ、「人権侵害があれば、当事者間の話し合いや訴訟による判断を待つべきで、公権力が判断し、流通・販売を阻害することがあってはならない」という、日本ペンクラブの声明を引用している。また、ジャーナリストの大谷昭宏氏は、「強制捜査は、捜査当局などの自分たちだけが知っていればいいという考えに立ったもので権力をかさに着た横暴なやり方だ」と、産経新聞紙上で批判している。  メディアの姿勢としては、当然、こういう対応にならざるをえないだろう。出版に対し、ひとたび国家による介入を認めたならば、自分で自分の首を締める結果につながることは、火をみるよりも明らかだからだ。  だが、そのことと、草薙氏の本が優れたものであるかどうかは、まったく別次元に属する。この本の大半は、供述調書からの引用で占められている。供述調書とは、警察員や検察官が取り調べた結果を、彼ら自身がまとめて書いたものだ。つまり、たとえ少年や関係者の肉声のように書かれていたとしても、調書はあくまで警察員や検察官の言葉に翻訳されたストーリーなのである。  警察や検察のストーリーをそのまま垂れ流すことが、どうして真実の出版になるのか。この一点に限っても、草薙氏の本は、ジャーナリズム失格といわざるをえない。結局のところ、彼女は「事件の動機は継母との確執」というワイドショーや週刊誌の報道に対置して、捜査当局のストーリーを代弁したのだ。もっとも、草薙氏は「どんなに汗を流して、地を這う取材をしたところで、家族の内情を詳細に語る第三者に巡り会うことは難しい」と、予防線を張っている。しかし、それならばジャーナリストという専門性は、なくなってしまう。  私たち精神科医も、精神鑑定に携わるとき、供述調書を資料の一つとして用いる。しかし、それを無条件に信用してはならないと、駆け出しの頃から教え込まれている。草薙氏に、そのことを教えるジャーナリズム界の先輩は、いなかったのだろうか。たとえ捜査当局のストーリーを垂れ流すだけの酷い本であったとしても、国家による強制捜査を認めるわけにはいかないという点に、現下の困難が横たわっている。 著者プロフィール (たかおか・けん)1953年徳島県生まれ。岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。専門は児童精神医学、総合病院精神医学、精神病理学。精神鑑定についても造詣が深い。著書に『引きこもりを怖れず(ウェイツ)『人格障害論の虚像』(雲母書房)など多数。 ※2007年10月1日 Fonte掲載