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2008.09.15

第8回「子どもの現在」 保坂展人

 10月22日から23日にかけて、沖縄に行ってきた。本当は、9月10日から11日までと予定していた講演会が、選挙のために不可能となり、改めて予定を組み直してもらった訪問だった。1日目は「児童虐待」についての講演で、2日目は「自分史」を語るインタビューゲームだった。  沖縄を最初に訪れたのは、21歳のときだった。2泊3日かけて船で那覇港にやってきた私は、大きな荷物を持っていた。東京での活動に疲れ、自分のエネルギーを発揮していける場を見つけるために「沖縄のどこか」に住みつくつもりだった。  那覇で荷物を置いたあとで、沖縄北部の農場に行って働いたり、中部東海岸の石油備蓄基地(CTS)反対運動の精神的なリーダーだった安里清信さんにもお会いした。宮古島に渡り、また石垣島、西表島と足を伸ばした。最後にたどり着いたのがコザ市(現・沖縄市)の喜納昌吉さん(歌手・現在は参議院議員)の店だった。  深夜から明け方に至るまで話し続け、ヒートアップした。私は、東京に帰る船の切符もキャンセルして、約1週間にわたって毎晩、夜を徹して話し続けた。私はなぜ中学生のころにベトナム戦争反対のデモに参加したのか。16歳で始めた内申書裁判とは何だったのか。そして、なぜ沖縄に来たのか。  喜納さんからは、沖縄の戦後、そして復帰運動はどうだったのか。三味線(サンシン)をエレキギターに持ち替えて音楽を始めたエピソード、そして沖縄の人々を深くとらえている自然崇拝と信仰。こうして、たがいに話していると、夜も白んでくるのだった。  それから私は東京に帰り、全国30カ所ぐらいで喜納さんのコンサートを企画・実行した。フリーライターとしての最初のデビュー作は『魂を起こす旅――喜納昌吉の世界』と題して雑誌『宝島』100ページを一気に書くことだった。沖縄を行き来するのはあたりまえになった。最初のうちは数えていたが、そのうち数えなくなった。100回近く往復したのだと思う。  沖縄との出会いは、私を変えた。80歳の老婆が足どり軽くカチャーシを踊るのを見て嬉しくなった。7年に一度親戚縁者が集まって「洗骨」し、生きている人々の世界であったことを死者に報告し、また死者の言葉をユタが媒介して語る。そして、泡盛を飲んで三味線の音が弾け、人々は墓で踊る。  私はカルチャーショックを受けていた。友人を山で失って悲しみにくれていた私は、天と地の垂直的な死生観ではなく、海の彼方の水平線の向こう側に死者の世界があり、寄せては返す波のように、ときどきは生と死の境界線は揺れ動き、行きつ戻りつして戯れる。そんな水平的死生観として沖縄の文化をとらえた。  疲れが分解し始め、猛烈なエネルギーとなって身体が変わり始めた。そんな沖縄体験から「元気印」という言葉が生まれた。ポジティブ(肯定的)なバイブレーション(波動)という意味である。  来週は「佐世保事件」をテーマとして宮崎県で講演する。11月以降も、長崎、広島、福岡と西日本から呼ばれたり、話したりする機会が多い。 ※2005年11月1日 Fonte掲載 ■著者プロフィール (ほさか・のぶと)1955年生まれ。中学時代、創刊した新聞が校則違反とされ、内申書に記載された「政治・社会運動」を理由に、高校は不合格。16歳から「内申書裁判」を起こした。80年代より、学校問題のルポを次々と発表、教育ジャーナリストとして活躍。市民運動にも関わってきた。96年秋の総選挙で社民党東京比例区で当選。議員として追及したテーマは、学校・子どもの問題をはじめ、平和・環境問題、年金問題など多岐にわたる。「児童虐待防止法」の成立、チャイルドラインの実現にも奔走。2003年、総選挙で破れるも、現在、ジャーナリストとして活躍中。著書に『先生、涙をください!』(集英社)、『学校に行きたくない』(集英社)、『元気印青春論』(大和出版)、『いじめの光景』(集英社文庫)、『学校を救え!』(ジャパンタイムズ社)など多数。