最新号トピックス

2008.06.16

第7回「親の気持ち 子の思い」 青木悦

「いじめ」に関する問い合わせが多い。「また、いじめが流行りはじめたのですね」とか「うちの子もいじめられているらしいのですが……」とか「親がいじめということばに対して敏感になり、困っている」という訴えがある。 私はテレビをほとんど観ないのでよくは知らないのだが、朝のニュースショーなどで、「いじめ」による自殺と考えられるできごとについて、感情を画面でそのまま流しつづけ、観ていてつらくなったと言ってきた人もいる。「自殺」はときどき連なることがある。胸のなかがいっぱいいっぱいになっている子どもにとって、ほかの子の「自殺」のニュースは“後押し”になってしまうこともあるだろう。 ただ、こういった疑問や怒りや訴えはたくさん聞くのだが、なぜ「いじめ」が起きるのかといった問いはまったくない。10年ほど前まではあった。「なぜ、こんなひどいことが起きるのでしょうか?」とか「ふだんは優しい子どもたちが、集団になるとなぜ、あんなにひどいことをしてしまうのでしょうか?」とか「いったい“いじめ”っていつから始まったのでしょうか?」などの問いがあった。 いま、そういう問いはまったくない。「うちの子がいじめられたときどうするか?」とか「あんな(いじめをする)先生」を見つけるにはどうすればいいか」などの問いが多い。それらの問いに、私はきちんと答えられない。わからないからだ。 「いじめ」は戦後10年ちょっと経ったころから表面化してきたと、私は思っている。1960年代の半ばくらいからはっきり現れ、1970年半ばから深刻化し、1980年代に入ってからは「いじめ」による自殺者も現れてきたと、大まかにとらえている。 いま、70代以上の人は、「いじめは昔もあった。戦争中の軍隊や疎開のなかであった」と言う。しかしそれらの「いじめ」は、社会にはっきりと上下の“身分・階級”があり、食べ物が足りないなどの状況下で、物や力をもつ者がもたない者をいじめたというもので、いまの子どもたちがやっている「いじめ」とは、まったくちがう。昔の「いじめ」は言ってみれば、強いことを見せしめる、つまり「えばる」に近いものであると思う いまの「いじめ」は、「引きずりおろす」――つまり、同じところにいる“平等”の子どもたちが、“平等”を生きることができなくて、自分より下をつくり出すのではないかと、私は思っている。こういう気持ちは強い競争のなかで、より強くなる。「友がみな、我よりできる」と思ってしまっては、人はなかなか安心していることはできないからだ。 「平等を生きる」というのは、権利は平等だけれど、人はみんなちがうということをきちんと認識することだ。ちがうから比べる必要がないし、比較することに意味がなくなる。少なくともテストの点数や収入の額に比較はあっても、その差が人を決めるわけではないと、はっきりわかっていれば、「いじめ」は減る。 競争を激化させる教育基本法改「正」は、当然のことながら、「いじめ」を激化させる。 ※Fonte2006年12月1日号掲載