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2008.06.09

第6回「親の気持ち 子の思い」 青木悦

私はとてつもない機械オンチ。コンピューターなんて私には別世界のこと。この原稿もいまだに手書き。ワープロさえ使えない。そのために誤植(この漢字ももはや死語?いまは変換ミスというのだろうが……)も多くなって、迷惑をかけている。 本紙でも、11月1日号の第5回「親の気持ち・子の思い」の見出しが「国が『基本法』をしくじるとき」となっているけれど、私が書いたのは「国が……をいじくるとき」だ。掲載紙をいただいてすぐ気づいたが、編集部にも連絡しなかったのは、「しくじる」の方がおもしろいかもと思ったのである。 今回、言いたいことはそのことではない。私はブログもインターネット上のトラブルも、体験として知らないということだ。そして、そういうことがらみの「いじめ」の相談が多くなって、いろいろ思うことがあった。 中学生がネットで悪口を書かれた。どこの誰のことかすぐにわかる書き方で。書かれたほうの中学生も、誰が書いたのか、うすうす見当はついている。しかし証拠がないので抗議できない……などの相談がいくつかある。学校の先生がブログに、担任を受け持っている生徒や親への不満を露骨に書いていて、書かれた生徒がとても傷ついた……などの相談も、このところあった。 正直、私はそれらの詳細が、わからない。ネット上に悪口を書かれて、それをどの程度の人が見るのか。「誰のことかすぐわかる」の範囲がどの程度なのか。担任の教員が生徒への批判をブログに書き込むのはもってのほかと思う一方で、その教員はなぜこんなにも無防備に出してしまうのか、などなど。実感として理解できないのである。 そんな私がそれらの相談を聴きながら思うことは、いまの人は面と向かってやり合うことを避ける結果、こんな風になるのかなということ。「いじめ」のなかに含まれる「陰でヒソヒソ話し合う」ことが「なかよし」としてのワクワクする“楽しみ”になっている面が、ネットという道具を使うことになっていったのかなということ。このことでひとりの人間を排除する密かな楽しみの枠が広がったと捉えたらいいのか、それとも……。 結局はよくわからないのだが、「いじめ」のもつ性質はかんたんにネットとセットになる。どちらも自分の正体を隠せると思われるし(実際きちんと調べれば「いじめ」もネットも正体は確かめられるのだが)、極めて無責任なところでウップンを晴らせるように思えてしまう。 しかし、こういう行為の果てにあるものは何なのだろう。機械の前に座っているのはいつも自分ひとり。誰かの中傷をして、そのときはスカッとしても、そういうずるいことをして喜ぶ自分を、別の自分は知っている。 それとも、別の自分を持っていない人がこういうことをするのだろうか。だとすれば、その人は個人として、人間として、地面に立てていないということになる。 「いじめ」は戦後10年ぐらいして始まった。個人を育てようとしない教育に起因していると、私は思っているが、機械の出現はそれとどうからむのか、考えたいと思う。 ※Fonte2006年11月15日号掲載