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2008.04.23

第1回「親の気持ち 子の思い」 青木悦

「自己肯定感」という言葉がある。「自信」と同じ言葉であると考えられていることが多い。これと反対の意味を持つ言葉として「自己否定」というものがある。 こうした傾向は長崎だけではなく、全国的に拡がっている。以前、学校が始まる直前に、自宅前の電信柱にハンガーをぶら下げて首をつってしまった中学生もいた。四国のとある街であったと記憶している。データを見れば、もっと多くの問題が見えてくるのかもしれないが、私がとても心配しているのは、その「季節」の意味だ。 まるで、これから始まる学校での生活に恐怖し、そこから逃れるための方法がほかにないかのように思われて、追いつめられていく姿が見えるのである。3月や4月の「新学期」ではなく、一度学校での生活を体験し、そして休んだあとの選択というところに子どもたちの苦しさを感じてしまう。 誰かに「いじめ」られているという具体的な恐怖ではなく、またあのピリピリとした人間関係に入っていくのかという思い、瞬時にグループの力関係を理解し、自分の役割をつかみ取って、どんな役割でもその役を演じ切らなくてはならない……、あの世界にふたたび戻らなくてはならないという思い、それに疲れてしまうのではないだろうか。 いったん、自分が死んだ気になって演じていても、それは一時的なことであり、その先にはちがう世界が開けていると思えれば、そんな結論を出さなくてもすむのかもしれない。しかし、子ども時代、あるいは「思春期」と言われる時代の苦しさは、文字どおり「先が見えない」ことにある。「この苦しみがずっと続くのではないか」と思ってしまうのが子どもなのである。 先が見えないなかで、一気に結論を出してしまうことにより、「自己否定」が「自死」というかたちをとるのではないだろうか。もう少しゆっくりと「自己否定感」という言葉のなかでユラユラしていることができれば、「結論」を出す子たちは減るのではないだろうか。 自分を認めていく「自己肯定」にはゆっくりとした時間が存在していて、「自己否定」には迷っている時間がない……。そんなところにいる子どもたちに9月1日はかならず「結果」をださなければならない絶対の「とき」ではないということ、そんなものは存在しないということ、ユラユラしていることが当たり前の姿なのだということを伝えていきたいと、切に思う。 ※Fonte2006年9月1日号掲載