――浜田さんは言葉の世界そのものが不思議だとおっしゃっていますね?

僕らは言葉を話す世界にすでに入っていて、それが当たり前になっているから、しゃべれない子がいると、「なんでしゃべられへんのや?」と思ってしまうけど、逆に考えると、なんで私たちはしゃべることができるのか。誰しも、何もしゃべらない世界から入ってきたわけです。

これは研究レベルの話ではなくて、本来は誰もが知っているはずのことです。しかし、どうしても自分の生きている世界が当たり前になっているから、そこから少しでも外れている子をみると、おかしいと思ってしまう。その視線が、かつてよりずっと厳しくなっていますね。

――それは、なぜだと?

いまの時代は、個人が能力を積み上げて社会に出て、その能力で金を稼いで生きていくという時代ですね。生きる単位が個人になってしまっている。考えてみたら一人で生きていけるわけはないんですが、貨幣経済社会のなかでは、個人の単位で能力を蓄積しないと生きていけないようになっている。そういうあり方が大勢を占め始めたのは、日本ではここ30~40年、高度成長期以降の話です。その以前は、人が生きるうえで、お金でまかなう部分は多くはなかった。人はお金よりも地域社会を軸にして生きていたんです。それが、いまや全世界的に、個人が単位になっている。

発達心理学がはやる背景には、そういうことがあると思います。

――発達検査を気にされる親も多いですよね?

あれは平均と比較しての目安です。平均値があるということは当然、幅があるわけです。それなのに3歳の子の発達が半年遅れているなんて言って、すごく厳格に遅れを意識させられています。

昔は、そんなこと気にしていなかったでしょう。お金を稼いで食うというスタイルが一般ではなかったときは、たいていの人は、大人になったら家の跡を継ぐということで、そんなに能力を厳密に測るような視線はなかったわけです。差別的な言葉でもありますが「五体満足であればいい」というような感覚があった。

◎脳の問題?

――発達障害という言葉は、急速に広がった観がありますが?

脳性麻痺や知的障害も発達障害と言えますし、かつては発達障害という概念は、すごく大きな概念でした。しかし最近では、自閉症を広汎性発達障害として、自閉症概念が急速に広がってきました。「自閉症スペクトラム」などと言いますが、自閉症が虹のように連続して広がっているというもので、境界をあいまいに押し広げた。それが最近で言う軽度発達障害です。しかし問題にされているのは、もっぱら軽度発達障害で、重度発達障害なんて、あまり聞きませんね。

たとえば脳性麻痺の場合は、あきらかに問題を脳のレベルで特定できるわけです。これに対して、脳の問題を特定できないけれども、行動上何か変わったところが見られるとき、脳になんらかのレベルで問題があるのではないかと想定しているのが、軽度発達障害の問題です。「微細脳損傷」「微細脳機能障害(MBD)」なんて言っていた時期もありますが、しかし、これは想定でしかないんですね。本当は、よくわかっていない。

――脳の問題とした場合、その対処は?

問題を脳の機能障害として想定すると、薬物投与などが治療の方法になります。薬は人を動かしますからね。薬物投与によって何らかの変化があって、それが本人にとって楽になるということは、現実にあると思いますし、薬物が必要な場合はあると思います。

しかし、薬がどこにどう効いているのかは、わかっていないんです。そもそも脳の問題かどうかもよくわかっていない。

薬物投与の発想は、脳の問題が行動に直結していて、その部位を変化させることで行動を変えようという発想です。もちろん人間だって壊れ物ですから、脳が壊れることはあり得ます。ケガをするのと同じで、それが人を左右することは当然ある。しかし、たとえば脳の特定部位に傷ができて、それが行動に影響するとして、脳の傷と行動の変化が単純に直結するわけではないんです。それなのに、たとえばADHDでは、注意能力が欠陥している、という。だけど注意能力って何なのか、本当はよくわかっていない。

脳に問題があったとしても、実際に人が生きているプロセスには人との関わりがあるわけです。何か問題があったとき、そのことに対して周囲がネガティブに関わっていると、本人も自分に対するネガティブな評価を強めて悪循環するというケースはありますね。周囲との関係が、いろんな問題をつくっている。そういう過程をいっさい抜きにして、薬という手段はないだろうと思いますね。問題の成り立ちを見る発想を抜きにして、個人だけを変えようという発想はまちがっています。

――医学の潮流の問題もありますか?

そうですね。残念ながら、個人のなかに起こったことは個人のなかで解決するという医者が多い。もちろん、それを問題視する流れも精神医学にはあるのですが、少数です。

◎脳だけみても何もわからない

いま、脳科学が大流行で、脳研究にはすぐ予算がつくんですね。脳を解明すればいろんなことがわかるという風潮が一般にもある。しかし、実際には、脳だけをみても何もわからないんです。脳をもった人間がどう生きているかを見なければ何もわからないはずです。それを単純に脳だけを取りだして、どの部位が活性化しているとか前頭葉が問題だとか、そういう単純な議論になってしまっている。個体能力に還元するような発想ですね。

――そういった発想は、親の意識にも影響しているように思いますが。

発達障害の問題でも、親子の生活の場のなかで起きている問題だと認識してくれればいいんですが、子ども自身の問題だということになっている。ADHDなんて診断を受けたら、親が「自分のせいではなかった」と安心するということもある。たしかに、それで親御さんの救いになる側面はあるでしょう。しかし、本当は、なんらかの生きにくさを持った子どもと、親との関係のなかで出てきている問題です。関係のなかで起きていることは関係のなかで修復していかないといけない。そういう視点を抜き去ってしまうと、「私のせいではなかった、よかった。子どもを治す薬をください」ということになってしまう。

――親子関係で問われていることは?

よくも悪くも、家族のなかに学校的な視線、発達的な視線が入っています。親が、子どもの発達の遅れを悩みとして持つようになったのは、ここ20~30年の話です。それは、いまの時代状況のなかで、やむを得ない面もある。しかし、家庭でこそ生身の関係、実質の生活があるはずです。

別の見方をすれば、いまの子どもたちは、家庭のなかでも消費者でしかないですね。すべてのものが商品になっていて、子どもは受け取る一方です。これも、かつてはなかったことです。かつては、家事の手伝いをしたりするなかで、子どもたちは早いうちから、おのずと自分が家庭を支えるという感覚を持っていた。それは必要なことなんだろうと思います。

だから、震災みたいな状況になると、子どもたちは逆にイキイキしたりする。支えられているのではなく、子ども自身が支えているという感覚、体験。それをいまの日常に取り戻すのは、とても難しいことだとは思いますが……。

――関係の問題を個人の問題にしているのは、不登校もいっしょですね。

そうですね。発達障害の場合の「支援」も、結局は個人の支援になっています。特別支援教育も、プログラムをみてみると、個人をどう教育するかという視点のみで、その子が学校や集団のなかでどうやって生きていくかというプログラムはまったくない。これは障害児だけではなく、学校そのものの体質の問題です。学校で出される評価はぜんぶ個人ごとで、集団のあり方は問われていない。

支援という名目で、ほんとうに支援になっているのかといえば、この問題をどう位置づけるかによってまったくちがってきます。
発達障害者支援法にしても、当事者から出てきた話ではないでしょう。これまでの障害者問題は、当事者運動として動いてきましたが、この問題には当事者の動きがない。それが実に不気味だと、石川憲彦さんが指摘されてますね。

――学校のあり方と発達障害とは関係していますか?

おおいに関係しています。昔から学校はあったわけですが、昔は、子どもにとって、学校は生活のなかの一部分、サブでしかなかった。地域や家庭の生活が軸で、子どもたちは家庭のなかで労働することを求められたし、地域のなかで共同体をつくることを求められた。そこに学校もあった。昔は勉強できてもできなくても、出た先はいっしょでしたから、生活に役立てばよかったんです。

◎バーチャルな学校のあり方

ところが今や高校進学率が100%近くで、それがぜんぶ輪切りにされていて、どこの高校に行くかによって自分の人生が決定されかねないという感覚を子どもも親も持っている。学校で身につける能力が、生活のなかでどう役立つかではなく、能力そのものとして試され、そこに乗っていかないと、いまの貨幣経済社会のなかで生きていけないような話になっている。だから、すごく微細のところでの差異を気にする。全体のなかで自分がどこに位置づいているか。偏差値の発想ってそうですよね。

最近、子どもの事件が起きるたびに、子どもたちがバーチャルの世界でどうのと騒がれますが、学校ほどバーチャルな場所はないわけです(笑)。力だけをゲームみたいに高めて。

ところが、そのバーチャルな世界での競争が現実の将来を決めると意識されている。こんな世界をはみだしてくる人がいるのは当然です。その人たちに対して、はみださないようにがんばりましょうと支援されても、問題解決にはならない。

しかし、発達障害をもつと言われる子どもたちが、学校から排除されないことも大事だと思います。もともと、学校ほど多様な背景をもった子どもたちが集まっているところはないわけです。社会に出ると階層分化してしまう。ですから、いまの学校のなかで、できることは求めないといけないと思います。個々の子どもたちの障害や能力というかたちで問題を整理するあり方はおかしい。学校という制度の枠がくっきり描かれるほどに、はみだす人は増えていく。それだけ、学校が多様性を受けいれなくなっているということだと思います。

――大人の生き方もバーチャルですね?

貨幣だって、まさにバーチャルです。紙切れひとつで人生が左右されている。バーチャルがリアルを動かしている。これだけバーチャルなものが人間の世界を動かすという時代は、かつてなかった。大人も、金儲けするために働いていて、働くことの意味がどこにあるかということは、置き去りにしている。人間というのは、そういう生き物なのかもしれないですが、ささやかなバーチャルを楽しんでいた時代から、バーチャルが世界を支配する時代になってしまっている。

学校というのも、地域や家族を支えるサブだったのに、いつの間にか学校がメインになって地域や家族を動かすようになってしまった。

そのことに気づいている人は多いし、感覚的にはみんなそう思っている。だけど、僕だって楽をしたいし、金を稼いで生きている。えらそうなことを言ってますが、毎日、飲んだくれてますしね(笑)。

――出口はどこにあると?

私は悲観論者でね。日本経済がつぶれるまでは変わらないんじゃないかと(笑)。お金なくして一日たりと生きていけないような生活を選んでいるわけですからね。よく食糧自給率が40%なんて国の単位で言いますが、個人の単位では、ほとんどの人が0%ですよ。すべてが消費になっている。冗談ではなく、一度破綻しないかぎりは変わらないのではないか。

◎あの希望は何だったのか

高度経済成長の時代は前向きで、次々に新しい世界が広がっていった。そこに希望を見いだしていたわけですが、その希望は何だったんでしょうね?

世界全体が貨幣経済に牛耳られていて、これが破綻することは計算上、明らかですが、人間って、そんなに先まで考えられないんですね。目先で生きている。人を動かしているのは、日々の楽しみであったりする。そこに一定の安楽があって幸せに思える。貧乏ってのはつらいですからね。人が気づくというのは、どうしようもなくなって気づくということなんだろうなと思います。

――病んでいるのは社会だと?

そう言うのは簡単だけど、薬を投与するわけにもいかないしね(笑)。

人が生きていける範囲というのは限られていると思うんですね。100人くらいの社会だと、人は具体的にイメージできる。生身の人間が生きていける世界というのは、その程度だと思うんです。ところが日本だけでも億じゃないですか。億という単位で集団が形成されていること自体がバーチャリティーなんです。すごい金儲けができるのは、ものすごい数の人間がいるからでしょう。ひとり1000円ずつ集めたら1000億にもなる。経済はそういう単位でまわっている。億とか兆とか。生身の人間が生きていける範囲なら、けっしてそういう単位ではお金は動かない。

結局、人が生きていける社会のイメージを新たにつくっていかないとダメなんだろうなと思います。学校に対してフリースクールがあるように、いまの貨幣経済社会に対しての“フリーソサエティー”のような。そういう、自分のしていることが生活に直結していることを実感できるようなあり方は、それなりに、あちこちにあると思うんです。貨幣経済のなかに労働力を売りこんで生きていきづらい人たちが、自分たちでそういう場をつくっていくことは、できることじゃないか、そういう余裕はまだあるんではないかという気はしますね。

学校もそういう場所に接続していくあり方を、本来、考えていかないといけない。子どもたちがこの世の中で働くことの意味を、学校のなかで考えていくことができれば、少しは変わっていくかなという気はします。

――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平)

浜田寿美男プロフィール
(はまだ・すみお)
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』(ミネルヴァ書房)、『「私」とは何か』(講談社)、『ありのままを生きる』(岩波書店)、『自白の心理学』(岩波新書)、『<うそ>を見抜く心理学』(NHKブックス)など多数。