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2012.03.19

震災特集「私は福島に『帰り』ます」青木悦

 積算放射線量という聞きなれない言葉が、もうふつうに使われている。福島市や郡山市など福島県中通りにある県内1、2位の人口の都市で、3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、この積算放射線量の数値が高くなっている。主として幼稚園、学校などの校庭で数値を測り、その「安全」の判断をめぐって文科省、いわゆる“専門家”、市町村などの思いに差があり、住人は本当に苦しんでいる。  こんななか、子どもたちはまず“遊び”としてのいじめを始めた。校庭の表土を削って隅に山積みにし、その上にブルーのビニールシートをかけて、とりあえず放射線量を減らし、拡散を防ごうとしていることは報道などで知っている人も多いと思う。  このビニールシートの上に、誰かの持ち物を放り投げ、その子に取りに行かせるという“遊び”だ。新聞では「いじめ」と表現されていたが、大人が「危険」「近寄るな」と言えば言うほど、そういう場を“遊び”にしてしまうのが子どもたちだ。  子どもたち以上に大人の「いじめ」はひどい。とても表現できないような福島県人に対する差別、「殺して地下に埋めろ」といったネットの書き込みなどを知ると、私の胸の底に大きな傷ができて、そこから血ではなく涙がとめどなく流れる。  私の夫は福島市出身。いまも福島市には86歳の義母が介護保険でやりくりしながらひとりで生きている。義母は幸いなことに放射能の恐さに関心がない。もうめんどくさいことは聞きたくないというようすで積算放射線量なんて舌をかみそうな言葉よりも、明日、予約してある病院に行かれるかどうか、そっちを気にしている。放射線に対してストレスが少ないわけで私はそれはそれでよかったと思っている。  この福島市に私たち夫婦は、来年、帰ることにした。東京の自宅兼事務所をたたんで、福島に移住するつもりでいた。義母をいつまでも放っておけないし、フリーで生きてきた私たちは貧しくて、わずかの年金では東京の高い家賃を払えないこともあり、仕事をすっかりやめるつもりはないけれど、拠点を移そうと考えていた。  そこに3・11の東日本大震災だ。とくに福島の原発事故は大ショックで、私は体調を崩すほどの状態になった。そして、その夜から余震まっただなかで原稿用紙に向かった。薬で体を支えながら、怒りにまかせて1カ月半ほどで300枚を書いた。3・11から始まって自分が生きてきた「戦後」をたどるかたちになった。まとめてから書き始めたものでもなく、思いのままに、教育がいつから変えられていったのか、いつから子どもたちが学校で本音を語れなくなり家でも気をつかうようになっていったのか、私たちは「文化的な」生活をしているつもりに、なぜならされてきたのか、そもそも「文化」ってなに? そんなことをグダグダと書いた。  それは9月なかばに『やさしく生きたい――私を育ててくれた戦後教育と四万十川』という本になり、けやき出版から発行された。高知県四万十市にうまれた私が、戦後を生きるなかで家族を見失い、友人や夫といった血のつながりではない人たちに助けられていった歴史でもある。いわば故郷を失った私にとって、福島はやっと見つけた「帰るところ」だった。書いてみて、それがよく自分にわかった。  予定どおり、来年4月末、私は福島市に「帰る」。そこから生きられるだけ生きて、この怨みを晴らさなければと本気で考えている。誰に、どう欺かれてきたのか、差別に抗して発言するにはどうすればいいか。いま頭のなかはカッカと燃えていて、元気だ。 (教育ジャーナリスト 青木悦)