前号に続き、あかつき号事件について記述したい。本人の意志に反し、無理やり戸塚ヨットスクールに連行され、格子戸付きの押し入れに入れられ、訓練や作業では殴られどおしという扱いの後、奄美大島の夏期合宿施設まで監視されながら、連行されたところまでは前号で紹介した。
合宿では、水谷くん、杉浦くんを含む特別合宿生には金銭を所持させず、外部の者との手紙や電話での通信を禁止し、日中の行動の際には、訓練生9人程度を1つのグループとした10のグループに班分けして、番外生に班長をさせ監視させ、夜間には逃走しないよう1時間交代の見張りをおいた。
水谷くんは奄美大島に到着後、合宿施設から逃走を図ったが、逃げられないと思い、その日の夕方過ぎには自分で近くまで戻った。そのことで、顔面を平手で、身体を棒で何回も何回も殴られた。杉浦くんもいっしょに逃走の計画をたてたとして、棒で多数回殴られた。
夜間、逃走の恐れありと考えられた水谷くんと杉浦くんは、同様の恐れありと考えられた4名くらいの者といっしょにして、それぞれの手首を手錠とロープで数珠つなぎに縛りつけられ、柱に固定された。こういう処置は、到着した8月1日から、奄美大島を離れる8月13日まで続いた。
あかつき号乗船までも、監禁、監視状態が続いた。乗船後2人は、神戸港へ向けて進行中の8月14日未明、高知県沖の太平洋上に、あかつき号船上から海に飛び込み、そのころ死亡したとされている。
起訴状は「合宿所に戻った後も行動の自由が拘束され、体罰を加えられて早朝体操や海上訓練などを強制される生活が続くことを嫌い、あかつき号の船上から救命浮き輪などをつけて海に飛び込むことにより、被告人らによる拘束から逃れようと考え、飛び込んだ」と述べている。たしかに、戸塚ヨットスクールに戻っても、何の希望も持てないではないか。2人はこうするしかなかったのだ。
乗船してからの2人の行動でわかっていることは、次のようである。
あかつき号に60数名乗り込んだ戸塚ヨットスクールのグループは、一等客室のます席に一団となって席を占めたが、ます席が混雑していたため、スタッフの指示で、水谷くん、杉浦くんは、ます席と壁のあいだの通路部分に席を定めた。
よく14日午前7時前、コーチが朝食前に点呼をとったところ、2人の姿が見えないため、船内を関係者や船員がくまなく捜した。捜索は神戸港到着後も海上保安官なども加え行われたが、発見されなかった。
2人の所在がわからなくなる前の言動や行動を調べたところによると、13日、乗船待ちをしていた午前9時ごろ、夜間、手錠やロープで数珠つなぎにされていたSくんに、2人は「船から飛び降りて逃げよう」「向こうに行ったら殺されるわ」などと飛び込みの意思を示した。乗船後も、2人は、C甲板の便所(大便用個室)の中に密かにSくんを誘い入れ、「飛び込むで」「お前もいかんか」などと述べて、船から飛び込む強い意思を示した。Sくんは、逃走の企てに参加しない旨告げた後も、決意を変えるようすはなく、水谷くんは、便所の奥のほうにある非常用梯子を昇って、先のようすを見てくるなどして、「ドアがあって、そこから出られるみたいだぞ」と杉浦くんに伝えていたという。
その後、消灯前ごろにも便所の大便用個室から2人で出てきたところを訓練生のYくんに目撃され、コーチに告げないよう頼んだり、午前0時過ぎに、ほかの訓練生に出会い、そのときの時刻を聞いたりしている。
その乗客らは、男の子らを目撃してからしばらくして、船尾の方で何か海面に向けて落ちたものがあることに気づき、海面を見たら、海面に浮かんだまま船尾後方に遠ざかっていく黒いものを目撃したという。
そのときのあかつき号航路上の海域は、黒潮本流の中心にあたり、流速や方向からみても、どんどん太平洋上を南下するしかなく、陸地に漂着する可能性はほとんどない、と考えられた。2人は失踪後10年たっても発見されていない。
何という悲惨な、短い生命だったことか。(つづく・奥地圭子)
※2003年5月15日 不登校新聞掲載


