「うちの子は、いじめられてもイヤだ、やめてと言えません。こんな弱い子どもは将来どうなってしまうのか。考えはじめると苦しくなります」――ある母親からそんな相談を受けた。けっこうこの種の声はたくさん届く。

「いじめられてもノーと言えない」という、たった一行のことばのなかに、じつにいろいろなことが含まれている。「いじめ」とは何ぞや。「いじめられても」の「ても」は、すでに一つの価値を含む言い方ではないか。「ノー」というのは、具体的にどういう態度を指すのか。「言えない」というけれど、「言えない」のか「言わない」のか、「言ってもムダだと思うから言わない」のか……などなど。理屈っぽく考えると、たくさんの疑問がわく。

その人とゆっくり語り合う。「どんなことをされているのですか?」と聞くと、体育の授業で並ぶとき、いつもつきとばされて、順々に列の最後まで追いやられてしまう。そして、先生が気づいて本来の列に戻してくれるまで、その場所でじっと立っている、という。子どもは小学校1年生だ。「ほかには?」と問うと、子どもの口から出たのはそれだけだという。担任の先生に話すと、とくにいじめられているようではないという。「私もそう思いますよ」と言うと、その母親は不満そうだった。そして言った。「私、わが子にもっと強くなってほしいんです。イヤなことをされたら断固それに抗議する力を持ってほしいんです。これがいじめかどうかの判断ではなく、どうやったらわが子を強い人間に育てられるのか、それを教えてもらいたいんです」――。

人間の「強さ」「弱さ」を、小学校1年生の子どもの行動と重ねて口にしてしまうことのおかしさに気づいてほしい。何をもって「強い」というのか、何をもって「弱い」というのか……。そう言うと、「要は負けてほしくないんです」と言う。

私は彼女に言った。「お子さんは弱いわけでも強いわけでもありません。ましてや、勝った、負けたなんていうところにいるわけじゃありません。いろいろな体験をはじめたばっかりじゃないですか――。そして何より大切なことは、『ノー』と言えない人間は、いてはいけないのですか? ひどいことをされて、それに抗議できない人間は生きている価値はないのですか? 私は片眼が見えません。だんだん年もとってきました。街をふつうに歩くことさえこわいと思うときがあります。酔っぱらいと駅のホームですれちがうとき、恐怖を感じることもあります。ものすごいスピードのエスカレーターに乗れないと思うときも増えてきました。うしろから列になって来る人に迷惑をかけると思って、エイ、ヤッとかけ声をかけて乗りますが、こわいです。そんな人間はダメですか? どんなにダメと言われても、こわいことはこわいし、弱い人間と叱られても、私、弱いんです。かばってくれる友人や家族が少しいるから生きられています。わが子を強い子にするという前に、強い、弱いとはどういうことか考えてみましょうよ。強くなければ生きられないということばは本当はどんなことを意味するのか。それを考えるのが大事だと思いますよ」。

いまもその母と子、私は大切な友人として付き合っている。(教育ジャーナリスト)

※2007年 Fonte掲載