子どものころ、まわりのおとなたちが「人を比べることは、はしたない」と、折々に口にするのを耳にした。誰より彼のほうが美人だとか、あの人よりこの人のほうが賢いとか、そういう話題を控えなさいという、暮らしのなかの戒めだったのだろう。その背後には、みんながいっしょに生きていくうえで、人の比較はおたがいの関係を悪くするのだよとの知恵が働いていたのだと思う。

 そんな節度や、たしなみは、いまやどこかへ消え去った。露骨な比較と評価が世の中を覆う時代になってしまったからだ。子どもは学校で、おとなは労働の場で、絶えず見張られあらゆる評価にさらされている。しかも、評価する立場にある者はその上にいる管理者から、なぜその評価をしたのか説明せよと、いわゆる説明責任を求められ、自分の評価をさらに評価される。こうしてとめどなく人を比べ値踏みを重ねるはしたない行為が、当たり前の世の中になった。その風潮は、当然のことながらおたがいの激しい競争と猜疑心を生み、人と人の関係を険しいものにし、みな臆病という病にかかり、孤独感にさいなまれている。新自由主義という名の、むきだしの競争思想がもたらした光景だ。

 一方で、このむごい社会構造を覆い隠す耳に心地よいことばが、さまざまに用意され普及していく。選択の自由、自己決定、個性の尊重などの美句だ。ひところ「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩の一フレーズがもてはやされたことがあった。実は当時の学校は逆に、「みんなちがって、分相応に」と、能力別に子どもを分けていく方向だったのに。また最近「世界でひとつだけの花」と、個人の可能性や自由を賛美するかのようなヒットソングが世の中を風靡した。実は若い人たちは、花より先に自分の蕾をむしりとられるような厳しい競争と評価にさらされているというのに。心地よくあいまいなことばについ取り込まれるのは、あまりに厳しい実状の裏返しなのかもしれない。でも、いかに厳しくても、事実を見きわめるところからしか、この先の道は見えてこない。

 美しく思えるが危ない言葉のひとつに、「個性」がある。大競争時代の幕開けだった80年代後半に、臨教審答申の目玉となった言葉のひとつがこれだった。当時出された教育課程審議会答申も、個性重視をうたった。それまで個性とも自由とも縁遠かった学校を思えば、それは一見、歓迎してよい変化のように思われた。しかし「これからは子どもの個性を育てる時代だ」と言うとき、その個性とは「人に認められるすぐれた特徴」のことだったのだ。それは実は、能力の言い換えに過ぎなかった。若い人たちも「自分らしさは」「自分探しを」と、過剰な自意識に取り込まれて苦しんだ。「個性」という言葉は、他人と自分の小さなちがいを強く意識させる。そこからおたがいの比較・評価は紙一重だ。

 そうだとしたら、「個性のちがい」を取り沙汰するのをそろそろ止めてはどうだろう。そして「みんなけっこう似たりよったりだ」「人間そんなにちがわない」と、おたがいの共通の側面に目を向ける姿勢と言葉をとりもどしたい。そこではじめて、人は親しくつながれる。現在の評価社会を撃つのは容易ではないが、「人を比べることは、はしたない」というかつての知恵が、ここから生まれ直していくと信じたい。  (小沢牧子・日本社会臨床学会運営委員)

※2004年10月1日 Fonte掲載