初めて週刊誌に連載したエッセイの第一回目で、16歳だった私は「自殺」をテーマにした。86年、東京の中学二年生・鹿川裕史くんがいじめを苦に亡くなり、その二カ月後にはアイドルの岡田有希子さんが飛び降り自殺をし、それに連鎖するように子どもの自殺が急増した年とセンセーショナルに報道されていたからだ。
細かな内容は、正直に言うと忘れた。
ただひとつ、「命は尊いとかんたんに口にしないでくれ」とは書いた覚えがある。“死にたいほど”つらいところにまで追い詰められたギリギリの心があり、または肉体的には生きていても殺し続けている感情があり、あるとき石につまづいて転んだくらいのことでも人は死ぬ、それには子どもも大人も関係ないと私は書いた。
ゲームばかりやっているから命に対するリアリティが足りないだとか、核家族化したことで死の概念が薄れただとか、今とそう変わらない解説が飛び交っていた。女の子が二人で飛び降りる事件も続き、それが”流行っている”かのように分析され、また忘れられていくことに、憤っていた。
今でも、遺書があろうがなかろうが、”死にたいほど”苦しい状態から実際の死を選んだ葛藤をそれこそ軽んじている人たちが、簡単に「たったひとつの命は尊い」と言ってのけるように感じる。
毎日のように人に殴られ、人を殴り、傷つけられ、傷つけかえしていた私は、人によってはそれこそ「死んだほうがマシ」な日常を生きながら、13歳のある日、どうでもいいつきあいだった友だちとケンカしたあと、左手首を切った。
縫合されて助かったが、理由をたずねる医者にも親にも“理由”は説明できなかった。遺書が書けないほど、私は混乱していて、同時に消耗していた。「これ以上は耐えられない」という思いが、何に?、という問いを凌駕したとしかいえない。よくたとえられるが、表面張力をたもっていたコップの水が最後の一滴であふれてしまう、その感じに似ていた。
観念としてはもちろん尊かった命が、あの瞬間、尊くはなかった。あの瞬間、私にどうにかできることは自分の体たったひとつしかなかった。私は、たったひとりの私のことしか考えられなかったから、たったひとつの選択をした。
それから20年以上、私は生きている。ヘトヘトになるまで死について考える余裕もなく過ごしてきたかもしれないし、今日死ぬのも明日死ぬのも困ると駆り立てられていた時間もあったと思う。だけど、私が自分を殺したら、私に多少なりとも連なる人たちまでを損なってしまう、と考える時間だけは確実に育った。
たったひとつの尊い命、が自分にだけあてはまるのではないことを実感するまでに、人はどれくらいの時間をかけるだろう。ましてや“死にたいほど”苦しんでいる閉じた他者の心に、全身を鼓膜にしたとしても難しいが、どのくらい寄り添うことができるだろう。
少なくともそうしたことを問う継続的な時間を、私たちは持たなくてはいけないと思う。こんなにも人はちがうという差異と孤独こそが、ちがった人や価値観を結びつける作業へと変わっていく時間を持たなくてはいけないと。(作家)
※2007年4月15日 Fonte掲載


