40年以上前の話だが、来る日も、来る日も、私は、クラス中から攻撃されていました。小躍りしながらはやし立てる男子、ひそひそと内緒話をする女子。
それは、私がテストで満点を取ることに執着していたこともありますが、私がテストでズルをしたと誤解されたことが決定的な要因になりました。「ズルをした」という誤解は、私には耐えられない屈辱でした。私も、必死で訴えましたが、私をいじめて意気投合していたクラス中は、何度説明しても、まったく聞く耳を持ってくれませんでした。
信頼している担任の先生は「ガマンするのよ」とおっしゃいました。それから私は、いっさい弁解することをやめ、徹底的にみなを無視して、卒業までの1年あまりを過ごしました。
ガマンすることは爽快、いじめることは見苦しい、そう思うしか私には道がなかったです。絶対に誰にも言わない苦し過ぎる記憶でした。家族にも、けっして言うわけはなく、それから30年、記憶の海の深い底に沈めていました。
私たちの両親は抑圧的で、私は表面上、けっして、逆らうようなことはしませんでした。私の夫もそうでした。私たち夫婦は、争いごとは避け、穏やかに暮らすには、人に逆らわないことがもっとも大切だと思ったまま過ごしてきました。
そんな私たちと、私たちの両親との、緊張に満ちた空気のなかで、長男、次男は育ちました。
「幼稚園には行きません」と言っていた長男の言葉を聴こうともせず、私は本気で「幼稚園は楽しいはずだ」と信じ、幼稚園にいれました。
いきなり集団にいれられ、たいへん緊張したのでしょう。長男は、家の外では会話ができなくなってしまいました。その後、学校でいじめられ、ひたすらにガマンをくり返し、高校に入学時には、力尽きていたようですが、それでも、長いさみだれ登校の時期を経て、不登校になりました。
それからの日々は、「プレゼントされた日々」だと今は思うのですが、当時は天地がひっくり返ったような思いでした。私のがんばって生きてきた人生観をくつがえし続けるものでした。
「これ以上、学校へ行ったら危険だ!」と宣言し、次男は中1の10月から不登校になりました。そのときに、不登校への大きな不安を覚えつつも、どこかで安心しました。次男はたしかに危なかったのです。彼は、小学校のときから、体中で先生に反発していました。先生に対して「ちゃんと仕事をするべきだ!」とか、ある女性の先生には「親父!」と言い放っていました。当時の私はただ恥ずかしさでいっぱいでした。そして、無力でした。
夫の両親が他界し、それまでは嫁としての自分を優先せざるを得なかった私ですが、二人の息子の不登校によって、忙しすぎた生活に終止符が打たれました。何もしない、ただいつまでも息子たちとゆったりと過ごす至福の時間を持つようになりました。
そう感じるのにはそうとうの時間を費やしましたがね。こんなに苦い経験をしなければならなかったのは、私も夫も、自分がこうしたいと思うよりも、私たちの親が望むように育とうとしたからではないでしょうか。
実際に私は親を悲しませないようにといつも思っていました。子どものころを思い出すと自分がどこにいたのか、なかなか見つかりません。みずからを疎外していた私は、人のことも疎外し、ゆとりのある眼差しで見ることはできませんでした。無言のうちにそれを受け継ぎ、子どもたちのガマンの器は、満杯だったのでしょう。幼いころから、ずっと親の虚像に合わせたくて生きてきた私は、息子たちの不登校という現実をきっかけに、もう、自分に無理をしすぎるのをやめました。すると、不思議と自分のことも、人のことも悪く思わずにすむようになったのでした。(東京都 清水ひとみ)
※Fonte 2007年1月15日号掲載


