
2004年6月27日に開催した本紙リニューアル記念集会から、石川憲彦さんの講演「大切なことは何ですか?」を掲載する。
私は32年前に小児科医になって、17年前から精神科をしていますが、いわば「くされ縁」で医者を続けてきました。
今日の演題は「大切なことは何ですか」ということですが、実際、私自身は、よくわからないところがあります。よく「大切なことは命」だと言いますね。これは医者にとっては絶対ですが、医者の立場を離れると、ほんとうにそうなのか、わからない。
◎ 母のこと
数年前に亡くなった私の母は、とても潔癖な人でしたが、亡くなる前の5~6年は、自分の身が自分の思うようになりませんでした。そうなると、私の顔を見るたびに、土下座をして「お医者さま、早く亡くなれるよう、楽に死ねるお薬をください」と言う。そんなことを言われたら、私も苦しくて、正直に言えば、早く死んでくれたらどんなに楽かと思いました。
病院に入院してからは、下の世話をものすごくいやがりました。フラフラになっていても、必死に起きあがって自分で済ませていました。それが死ぬ数カ月前はとうとうできなくなって、人にまかせていました。しかし、そのころになると、私が行くと、にこにこしながら「よく来てくれたね。もう最期かもしれないけど、無理しなくてもいいよ」と言っておりました。
◎ くされ縁
幸せというのは大切ですが、それを支えるのは、あまりきれいな言葉ではないと思います。私の場合は「くされ縁」ですね。くさっていても大事だと思える関係、くさっていくものを大事に思えること。それが私にとっての源流と考えているところがあります。
私たちは、どんなにあがいても、なまもの、生き物です。生きているものは必ずくさるし、くさるものを吐き出して生きているわけです。うんちも半分くさったものでしょう。くさったものは、土にかえって次の食物になる。もともと私たちは、そういうことを当然のこととして生きていたわけです。ところが最近は、人間が人間だけの関係のなかだけで生きていけるような錯覚がある。
◎ 学校の源流は
さて、不登校は何かと考えるとき、学校の源流を考える必要があります。いまのような学校制度は、1800年代のイギリスとフランスに始まっています。ナポレオンは普通教育の普及にがんばったんですね。なぜがんばったのか。当時、英仏は世界で一番強い国で、たがいに争っていました。勝つためには産業革命が必要で、それには、泥にまみれて、どんくさい仕事をやってきた人たちを、機械をつくるような人につくりかえないといけなかった。そういうことを目指して学校がつくられたわけです。
日本にしても、100年ほど前、英米から来た工業技術の指導者は「日本人はのろまでグズだ。物事を早くきちんと合理的に処理できる能力をつけないと、この国は発展しない」と書いています。しかし日本は、工業化に遅れながらも、メチャクチャなことをやって、工業化に成功しました。
東京オリンピックのときも、日本は「成せば成る」とかけ声をして、突貫作業でインフラ整備を仕上げてしまった。工業は、がんばればなんとかできてしまうわけです。しかし、農業はそうはいかない。ともかく自分の育てている作物をいいようにしてくれるよう、神さまに祈るしかない。直接、自分のつくっているものに働きかけられないんですね。工業化社会の感覚からしたら、とってもとろい。ですから、農村から都市にかり出された人は、みんなつらい思いをしたんです。そういう人たちが、自分のした苦労を子どもにはさせたくないと、子どもに教育を受けさせようとした。
英仏は産業革命に成功し、工業製品で世界を支配しました。豊かになった都市労働者は中産階級を形成して、自分の子どもたちにバラ色の未来を思い描くようになりました。それで、1900年ごろから、学校は楽しい場所、人権が浸透する場所、といった理想が出てくるんです。みんなが中産階級になって、ハッピーな市民生活が続くと思ったわけです。日本でも、第二次大戦後、アメリカから急にそういう考え方が入ってきました。
◎ 知恵を売る社会
ところが、いま、世界中で大きな転換が起きています。物づくりをしてきた国が、物ではなく知恵を売るようになっています。昔は知恵は分け合うものでした。しかし、いまや知恵は金をとるために独占するものです。そうなると、これまでの学校は存在意義を失います。みんなが中産階級になれるというのはウソだとわかってきたわけです。知恵と富を独占できる人、そのおこぼれにあずかれる人、それも難しい人――と分けるように、教育の中身も変わってきています。
しかし、そういう社会がどれくらい持ちこたえられるかというと、とても賞味期限が短いだろうと思います。農業社会は何万年、工業社会は200年くらいでしょう。知恵を売る社会は、何十年持つかどうか……始まると同時に賞味期限の切れかかっている社会です。ここに、私たち、親や教育者の不安があるわけで、何かおかしさがある。
◎ ウソくさい学校
80年代末期から90年代初期に登校拒否をした子どもの話を集めた『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房)という本があります。私も監修者のひとりですが、ここに寄せられた話を読むと、小学校低学年の子には、学校は大きくて怖い、家庭的なものとはちがったものといった感が強く出ています。それが小学校中盤から中学校になると、学校のウソっぽさを語るようになる。学校では自分を演出して外に出さざるを得ない。なんかウソくさい。そこをなおがんばって通い続けた子は、自分が自分を偽って、ずっと仮面をかぶって生きてきたような気がする、と言う。
これは日本特有の現象かと思っていましたが、どうやら世界的にみても同じ現象が起きています。産業革命以後、先進国が競争して拡張させすぎた地球の矛盾に“全生命の環境系”がついていけなくなっている。それでも、拡張こそ未来だと主張する大人社会の虚勢の嘘っぽさの反映です。
◎ 特別支援教育
いま、文科省は「特別支援教育」を一気に押し進めようとしています。ADHD、LD、高機能自閉症といった「障害」児が全体の6%はいるはずということになっていて、学校の教師は、6%程度は見つけないといけないことになっています。これまで、障害児は全体の1~2%でしたから、合計すると全体の8%になります。
これからの社会では、人間であることのどんくささ、くさるような部分、なまものの部分は、社会からはみ出ざるを得なくなってきます。日本では8%ですが、アメリカでは州によっては25%、ドイツは20%と言います。その一方で、飛び級などで、1~2%のエリートを養成しようとしている。
◎ 大切なことは
演題に戻りますが、大切なことというのは、あとになってから、わかることですよね。なくなってみて初めてわかる。言葉にできることというのは、すべて過去のことです。
人間は、きれいではない、ハッキリしないことを抱えながら、もがきながら生きているわけでしょう。そういう、ふだんは言葉にできないけれども、なぜか自分を導いているものが、くされ縁だと私は思います。90歳の母親が、死にたいと言いながらも、それでも生きていたのは、言葉では説明できない。
あるいは愛情というのも、くされ縁だと思います。相手のくさっていくものを許せるかどうか。たとえば人を好きになるって、においを許せるかどうかがありますね。犬でも猫でも、親の排泄物をなすりつけたら、ちがう動物でもおっぱいを飲ませてくれます。
私たちの子どものころは、学校のすぐそばに肥だめがありました。ウンチやおしっこのおかげで作物ができて、みんな生きていたわけです。ところが、学校が鉄筋化され、冷房が入ったりすると、そういうにおいがなくなっていく。水洗トイレが整ったころから、おねしょが小児科に行って薬で治すものになりました。
生きていることはくさいことです。いまの社会は、そういうものを受けいれる余裕がない。社会から、生き物である部分がどんどん削られていっている。そのなかで学校に行かない、あるいは、ひきこもるといった現象が当然のように起こってくる。
じゃあ、どうするのか。人間だけが生きているような錯覚の世界で、もう一度、くさっていくものを受けいれる感覚を取り戻す必要があるのだと思います。少し縮小(引きこもる)する気になれば、それは難しいことではないのですが……。
※2004年7月15日 Fonte掲載


