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2010.12.13

里親・里子から考える親子像 芹沢俊介

芹沢俊介さん ――『もういちど親子になりたい』(主婦の友社)を書いたきっかけから教えてください。  僕は家族論を30年以上やっていますが、だんだんと関係がうまくいってない親子が増えてきたなあと感じていました。まず若い人たちは、親から「見捨てられた感」を抱いている。もちろん人によって思いの度合いはちがいますが、一様に子どもが親子関係への飢餓感を持っています。  一方で若いお母さんたちから「親子関係がうまくいかない」という話をよく聞くようになりました。一般的な子育ての苦労に悩んでいるのではなく、本当にうまく親子関係が築けていないんですね。さらには保育士さんから「幼児が荒れている」ということもよく聞くようになりました。

親子で「ある」と親子に「なる」

 そういう話を聞くたびに「子どもの訴えが置き去りにされているなあ」と感じます。子どもが「ねえ」とお母さんを呼びかけてもふり向いてくれない。子どもの呼びかけが、いつも大人の都合の後回しになってしまう。携帯でメールを送りながら授乳をするようすなどは象徴的で、あらゆる場面で子どもが親から存在を正面から認識されない状況が増えています。  こういう支配的な親子関係が広がってきた要因の一つに「個人化の時代」になったことが挙げられます。個人化の時代とは、自分のことを最優先する時代です。それ自体は基本的に悪いことではありません。ただし、こと親子関係にかぎっては「子どもが最優先」という視点は非常に大事です。  なぜ子どもが最優先でなければ、ならないのか。この問題を考えるにあたって、一番の題材になったのが里親・里子の話でした。そもそも僕は10年前から児童養護施設や里親の問題に関わり始めたんですが、考える材料はたくさんあります。血のつながりがある親子は、無意識に「私たちは親子である」と思っています。しかし、里親・里子の関係では、どうしたら「親子になれるのか」という問いから始まり、葛藤と苦悩を重ねながら親子関係を築いていきます。血のつながりがないからこそ「親子である」前に「親子になる」必要性を感じている。  話を戻すと、なぜ子どもが親子関係に飢餓感を抱くのかと言えば、切実に「親子になる」ことを望んだのにそれを拒まれたからこそです。「親子になる」というテーマは、里親・里子の問題だけではなく、すべての親子関係全体を貫くような原理論を内包しているのではないか。そういう思いから、この本を書きました。 ――「親子になる」必要性はどこにあるのですか?  秋葉原事件(死傷者17名がでた通り魔事件)の青年が典型的ですが「親子になる」経験を逸すると、孤独を抱えてしまうんです。以前、Fonteにも書きましたが、孤独とは、一番大事な人、信頼できる人が自分の内部にいないことです。児童養護施設「光の子ども家」の設立者・菅原哲男さんの言葉だと「隣る人がいない」ということになります。隣る人とは、絶対的に信頼できる人、もっと言えば絶対依存ができた人のことです。光の子ども家では子どもにとっての「隣る人」をつくることが最大のテーマです。隣る人がいれば、人は「ひとり」になれる。たとえ孤立しているように見えても、孤独を感じません。何か問題があってもねばり強く自分のことを支えていけるものです。  一方で、秋葉原事件の青年の携帯サイトへの書き込みを読むと、つねに隣る人、絶対依存のできる人を求めているように見えました。ただ、それがどうしてもうまくいかなかった。理由はやはり信頼関係を築いた原体験がなかったからでしょう。人を信頼する、自分を無条件で差し出してもかまわない、という思いが持てない。だからこそ、対人関係においてつねに受け身の姿勢をとるしかなく、うまく人との関係を構築できなかった。やはり、とことん依存しえた経験、自分を無条件で差し出された経験がないと、人を信頼することは難しいと感じます。 もういちど親子になりたい ※『もう一度親子になりたい』主婦の友社 2008※ ※2008年11月1日 Fonte掲載