
ニートという言葉が、あっという間に広まった。川柳でも見かけるし、お笑いのネタでも聞くし、世のなかの動きにウトイ私が知っているということは、ほぼ全国区で定着しつつあるのだろうと思う。
ちなみに見かけた川柳は、私にはなじみの深いドラクエにかけたもので「ニートが斧をふりあげた! 勇者はハローワークをとなえた!」みたいな感じだったと思う。作品としてはおもしろくても、そこにはほんのりとした毒をはらんでいる。おりしもさまざまな「無職少年」が事件の加害者として報道される時代なのだから。
学校を卒業しても進学や就労の意思を持たず、そのための訓練も受けない。そういう勤労意欲のない人をニートと指すらしい。だから勇者は「ハローワーク」の呪文を唱えるのだろう。
そもそも人間には、二つの相反した概念がある。
一つは「金儲けのために生まれたんじゃないぜ」というもの。もう一つは「この世は金さ」というもの。私の好きな忌野清志郎は同じアルバムのなかで、まさにこれと同タイトルの歌を2曲続けて収録していた。バイト先で知り合った大学生のところに転がりこんで、彼のアパートでこのアルバムを初めて聴いた。自活しようと初めて家を飛び出した、13歳の冬だった。
なにかというと「誰の金で食ってると思っているんだ!」と叱る親に反発して、そう言いたくなる相手の気持ちなんか少しも頭をかすめずに、直情的に「じゃあ自分の稼ぎで食ってやるよ!」という紋切り型のコースで家を飛び出した。その足で渋谷の居酒屋に面接に行き、そこでとりあえずの宿泊先として男もゲットした。行動力だけはバカみたいにあった。
居酒屋の厨房という、地味でやたらに忙しいそのバイトは、あるひとつの事実を教えてくれた。つまり何十枚と下がってくるお皿やグラスは、洗っていればいつかは終わる。人間関係はそうはいかない、ということ。
なにごとかを考える余裕もなく、店から帰るころには手がかじかんでスポンジを握ったかたちのまましばらく動かなくなる、そういう仕事を私はそれまでしたことがなかった。
いつかは終わったり結果を残せることだけが自分に賃金を約束してくれ、終わりのない他者との関わりや自分の生きる姿勢などは金なんかには還元できないことを、おぼろげながら13歳で私は知った。
それから20年以上、私は働き続けている。その思いは試行錯誤を繰り返し、多様な価値観にさらされ、もっと重層的に変化はしているけれど、最初に感じた、結果が残るものと、かたちはないが続いていくものとのちがいは、今も働くことの意義において私のコアをなしていると思う。だから「金儲けのために生まれたんじゃない」し「この世は金」でもあるのだろう。
ニート、けっこうじゃないの。賃金をもたらさない行為は、それゆえに自分になにかを深く刻むことだろう。生産性が高いことだけが有効視される社会のなかで、逆風に耐えて自らに斧をふりあげるとき、きっとその人だけの思いが生まれる。その思いを産み続けていくことが、そのまま生きていく道になると、少々観念的ながら私は知っている。
(作家)
※2005年3月1日 Fonte掲載


