「社会的ひきこもり」論から「存在論的ひきこもり」論への転換がこの問題に関して私が自分に課した緊急のテーマになっている。
 このような転換が必要と考える最大の理由は、「社会的ひきこもり」論が否定を核にしているということにある。肯定を核にした「存在論的ひきこもり」論を始めるためには、それゆえ「社会的ひきこもり」論を核において成立させている否定性とそれがもたらした事態を明らかにし、「社会的ひきこもり」概念、「社会的ひきこもり」像を実態に即して解体することが不可欠となるのある。
 あらゆる「社会的ひきこもり」概念(たとえば斎藤環1999)は、引きこもるという状態像を否定すべき事態と捉えるところから出発している。否定的な姿勢は必然的に、そうした否定的状態像は改善されなければならないという姿勢へと強化される。引きこもるという状態像を改善すべき対象とみなす姿勢は、次にどうすれば改善できるか、という具体的な課題を離陸させる。さらにそこから、誰がその改善の役割を担うのかという問いが自動的に紡ぎ出されていく。
 このような否定性の連続の先に、引きこもるという事態をターゲットにした市場が浮かび上がってくるのが目撃できるだろう。むろん、これは市場が機能するための前輪でしかない。後輪がないとこの市場という車は走行不可能である。では後輪はどうやって用意されたか。ここに「社会的ひきこもり」概念の否定性がもたらした悲劇、すなわち当事者およびその家族の無力化という物語があらわになる。引きこもる本人(当事者)とその家族は無力である。当事者にもその家族にも自助能力がない。そればかりか、彼らは無力ゆえに支援を求めているというわけだ。
 こうした物語こそが今日まで「ひきこもり」医療市場、支援市場を成立させてきた根拠である。だがこの根拠は、くり返せば、あくまで否定性を核にした「社会的ひきこもり」論であり、この概念が死滅すれば、空しいものになる。
 斎藤環の概念(※)はとっくに死滅している。しかし、その概念の核になった否定性は依然として、人々の認識の根底を頑強に支配している。引きこもる当事者自ら、そして当事者の家族が、引きこもること、引きこもっていることの意味を等身大で受けとめ、受けいれることができるためにいま必要なのは、そうした否定性がつくり上げた市場の物語から身をもぎはなすこと、「社会的ひきこもり」概念を捨てることではないか。そこからしか、ひきこもることの否定性へ向けての新しい道筋――「存在論的ひきこもり」論のはじまりは見えてこない、いま私はそんなふうに考えている。

2010年1月1日 Fonte掲載