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2010.08.23

ひきこもり経験者 丸山康彦さんインタビュー

丸山康彦さん  今回は丸山康彦さん。丸山さんは自身の不登校、ひきこもり体験をもとに、相談機関「ヒューマン・スタジオ」を開設した。不登校やひきこもりに悩む本人や親の相談支援を始めたきっかけや今後の活動の展望について、丸山さんご自身の体験を交えながらうかがった。 ――不登校、ひきこもりの経験からお聞かせください。  私が学校を休み始めたのは、高校に入学して半年がすぎたころでした。じつは、私は高校1年生で留年を4回経験していて、7年かけて高校を卒業しました。4回目の留年が決まる前のことは、いまでも鮮明に憶えています。今度こそ退学させられると思い、それが怖くて家のなかで物にも親にもあたりちらし、暴れ尽くしたあと、つきものが取れたような感覚を覚え、それから一日中、部屋で自分自身と向き合いました。すると、退学になることが怖くなくなって楽になり、かえって元気に登校できるようになったのです。  当時の担任の先生も「本人にこれだけやる気があるのだから」と力を尽くしてくれ、5回目の1年生をできることになりました。それから2年生、3年生は留年することなく、充実した学校生活を送りました。中学生のころから教師になりたいと考えていたため、その後は大学に進学したのですが、最初の教員採用試験に受からず、非常勤講師として1年間働きました。しかしその後、ある出来事から人間不信に陥り、それから数年ひきこもりました。 ――その後、相談機関「ヒューマン・スタジオ」を設立されたわけですが、きっかけは?  高校で3回目の留年が認められたとき、定期的にカウンセリングに通うという条件が付いていました。そのカウンセラーが不登校に対する理解がまったくない人で、病院に行かされて脳波をはかられたこともありました。いま思えば、何とも非人間的な扱いを受けていたなと思いますが、私だけではなく、その当時は多くの人が不登校を理由にさまざまな非人間的な扱いを受けていた、そういう時代でした。  こうした実体験を通して気づいたことは、教師、カウンセラー、親などと立場はちがえども、大人の根底に共通している「子どもを教育する視点」でした。私の留年に尽力を惜しまなかった担任のように、「子どもの気持ちにより添う視点」に立った教師を目指していた自分のような存在は、既存の学校システムのなかでは異端以外の何物にもなりえないと感じたんです。「教育の主役は子どもではなく大人なのだ」という気づきによって自分の視点がひっくり返り、それからはというと、教育を受ける側、つまり子どもの視点から大人を見るようになりました。

◎「教育」にこそ、「対策」が必要

 ある日、『思春期対策』というタイトルの本を本屋で目にしました。じつにいやな気持ちがしましたよ(笑)。大人は不登校対策だの非行対策だの、いまも昔も何かにつけて対策、対策と叫びます。つまり、従来の学校教育的見地に立つと、子どもの言動一つひとつが対策の対象になるということです。しかし、子どもたちにとってこれほどおせっかいな話はないのではないでしょうか。  というのも、学校だろうが、カウンセリングだろうが、「子どもを大人が施す教育を一方的に受容して育つ存在」として見なしている以上、子どもの意思に関係なく、子どもをこねくりまわしていることには変わりはなく、そのことに終わりもないでしょう。こうした社会のありように私は強い疑問を覚えると同時に、子どもが主体的に生きるためには「教育」そのものに対策を講じる必要があり、ひいては、その取り組みが子どものいまの幸せにつながると考えたんです。  そこで、学びや医療など、不登校の子どもたちを取り巻くすべての事柄を、「教育」という言葉でつなげて研究しようと思い、1999年に「教育対策研究所」を、2001年に相談機関として「ヒューマン・スタジオ」を個人で立ち上げました。  私が目指す社会のありようとは、子ども自身が中心となって、どのような教育を受けたいのかということを、子ども自身で選択して決めていくことができるというものです。子どもたちが主体的に生きることができるようになるために、学校、医療などの社会システムをどのように変えていくか。自分の場合は、本人をどうこうするのではなく周囲の対応を変えるため、相談援助という支援を実践しようと考えたのが、「ヒューマン・スタジオ」を立ち上げたきっかけですね。 ――「ひきこもりの高齢化」が問題になっていますが?  ひきこもっていた当時、すでに30歳を越えている私は、「社会人」として社会に戻るルートはほとんど閉ざされていたわけです。ひきこもっているときは、自分に生きづらさを強いる親や社会に対してエネルギーをぶつけていればよかったわけですが、いざ、自分が戻ろうとするときには「いまのお前に社会に戻る資格があるのか?」という内なる声が聞こえてくるわけです。そして、それまで外に向かって発していたエネルギーを自分に向けなければならず、自分への徹底的な攻撃が始まるんです。いわゆる、自己否定ですね。 そして年齢という話に絡めてですが、誤解を恐れずに言えば、ひきこもりの苦しみというものは、不登校の苦しみの何百倍もあるのではないかと思います。 ――と、言いますと?  けっして不登校を軽んじているわけではありませんが、不登校によって直面する苦しみの一つに、「将来、どうするのか」と、周囲から問われ続けることがあります。しかしひきこもりの場合、「将来、どうするのか」なんて考える余裕が時間的にも精神的にもありません。私たちは子どものころから、小学校、中学校、高校、大学と一歩一歩ステップをあがっていき、最終的に会社に勤めて社会人になるということを世間一般的なライフコースとして求められてきました。  一方、学校を卒業した後というのは、それまでのような目に見えてわかるステップアップというものがありません。その喪失感というのはものすごいものがありますし、そのときの年齢が高ければ高いほど、将来の希望を持ちづらいということがあります。不登校とひきこもりでは、自分の現状を受けいれられない苦しみなど共通する部分は多いのですが、こうした点から考えるとひきこもりの苦しみのほうが大きいのではないかと思います。しかし、現実と自分を受けいれるということをしないかぎり、前には進めないのではないかというのが持論です。

◎野生動物として生きてやる

――丸山さんのなかで、現実と自分を受けいれる過程とはどのようなものだったのでしょうか?  ひきこもりの最後の時期に考えていたのは、「人間に順位をつけるとするならば、自分は最下位だ」ということ。ひきこもっている自分と同じように働いていない人はほかにもいるわけですが、のっぴきならない事情がある人たちなんだと。でも自分は働こうと思えば働けるのに働いていないわけで、自分より劣っている人間はほかにいないんだと考えていました。  そこまで自分の意識が落ちていると、その下は死の世界しかありません。あくまで観念的な話ですが、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたような感じで、自分の横に死後の世界が拡がっているようでした。  そのなかで、ある日突然、ふと思ったんです。「自分の道がそれしかないのであれば、そのなかで生きてやる」と。誰にも顧みられることなくいつ死んでもいい、つまり野生動物のような生き方をまっとうしようと。  あくまで私の場合ですが、そう考えることで、自分の気持ちがすごく楽になりました。もちろん、現実を100%受けいれるということは難しいですし、「ちがう人生があったのでは」というじくじたる思いが今でもあります。また、ひきこもりに対する社会認識についても、急激に変わることはないでしょう。しかし、そういう葛藤を抱えながら生きていくしかないのではないかと思います。 ――今後の活動の展望については?  ご覧のとおり「ヒューマン・スタジオ」は庭付きの一軒家のなかにあります。なので庭に花をもっとたくさん咲かせたいですね。不登校やひきこもりの青少年やそのご家族が、来所して心穏やかになり「自分はいま、生きている」と実感できる、そういうことのほうが不登校やひきこもりをどうにかすることよりも大切だと信じるからです。  もちろん、メールマガジンの配信やイベント開催なども続けて、不登校とひきこもりへの理解を社会に拡げていくこと、それから地元湘南地域でのネットワークづくりをさらに進めること、などをめざしています。 ――ありがとうございました。(聞き手・小熊広宣) (まるやま・やすひこ) 1964年生まれ。開業スクールソーシャルワーカー。高校時代、不登校と留年のすえ、入学7年後に卒業。高校講師・ひきこもりを経て、1999年4月に個人事務所「教育対策研究所」を開設。2001年10月に「ヒューマン・スタジオ」を設立し、代表に。 ※2009年8月1日 Fonte掲載