大岡清一(福島県)
不登校でもっとも厄介な問題は、子ども自身の混乱ではなく父親の家族内でのあり様である、と言われ続けてきた。私自身も父親として家族(おもに妻)から同様の批判を受け、また自分自身も悩み苦しんだ経験がある。なぜ、父親は子どもと家族に寄り添えないのだろうか。この問題を図Aを手がかりに、父親の立ち位置の視点からから考えてみよう。

子どもが不登校になったとき、最初に父親は①の「学校・社会(企業)」の位置から考えようとする。この①の位置からは②の「家族(子ども)」に問題がありと、いわば客観性を武器に結論を求めようとする。不登校は妻の育て方の問題であり、また、学校に行けない子どもは弱い存在であって、このような状態では父親が日々格闘している厳しい企業社会を生きていけないと、競争の論理で理論構築し納得させようとする。私は、家族の問題に客観性や競争の論理を持ち込み論じることほど不毛なことはないと思っている。
しかし、①の「学校・社会(企業)」で生きる父親も、家族の一員として子どもの不登校と向き合わざるを得ない。こうして父親は①と②のあいだで揺れ動くこととなる。この動揺の期間が短くてすむ人、長い時間を要する人もあり、その個人差は大きい。この時期、父親は子どもの混乱とかかわるなかで、理屈では家族に寄り添いたい感情も生まれてくるが、もう一つの感情がそうさせることを許さず、悩みと苦しみの振幅が大きい。
次に、①の価値観で生きてきた自分自身の肯定と否定の矛盾から徐々に解放され、①と②の両方が見て取れる位置③に立つことができるようになる。この時、父親は①の立ち位置から少しだけ自由になることができたのである。父親には子どもと家族を否定することなく、温かく包み込む感情が身体の各所から湧き上がり、子どもがとても愛おしく大切な存在として受けとめることができるようになる。他者からのさり気ない優しい言葉や温かな人とのふれあいに心をゆさぶられ、涙もろい父親に変身するのである。父親の流す涙は企業論理や競争からの浄化作用でもある。男として涙を流す機会などそう多くはないので、自己回復のために大切に流してほしいと思う。
最後に、③の立ち位置が確保できたとき、少しずつ④の位置に移動することが可能になる。立ち位置が④に移動するほど、①の「学校・社会(企業)」と②の「家族(子ども)」がよく見える地点に立つことができるようになる。また、図Aでは平面にしか描かれていないが、④への移動は上方への俯瞰性を持ち、全体像が一点から見て取れるようになる。曇りのない自由な目で見える対象は、これまで見てきたものとはまったく異なるものとして捉え直すことができるのである。
こうしてわが子の不登校は、父親に①の「学校・社会(企業)」で生きることを強制させてきた拘束を父親みずからが解き放ち、自由な思考への道標を与えてくれることとなったのである。子どもの不登校が家族、とくに父親へ与える影響は驚くほど大きい。天下・国家を論ずるのが男の甲斐性などと、家族を顧みなかった人間こそ不登校が有り難く大切であったと知らされるのである。「神は細部に宿り給う」という。不登校という「小さな神」は、何ものにも代え難い大切な存在である。
2008年7月1日 Fonte掲載

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