瀬戸嶋充(東京都)

 仕事場での人間関係で、責任者の不合理な対応に心を痛め、ごまかし笑いで頭を下げて、その場をやり過ごす。内心の苛立ちを鎮めようと努力をしながら帰途につく。早く家に着いて、ホッとしたいと思う。
 わが家のドアを開けて居間に入ると、家内からは私を責め立てるような険しい眼差し、娘は、TVに見入りながらも私を避けるような刺々しいうしろ姿。昼間の仕事場での責任者が取ったと同じ態度がそこにある。
 私を見下し、責めつけ、無視されるつらさ。仕事場と異なるのは、わが家では、私はごまかし笑いができないこと。
 娘は、高2のとき学校に行けなくなり、家を出られない状態で2年が過ぎた。不登校について家内と私の学びはいく分か深まり、娘の感情の激しい爆発の頻度は減ってきた。しかしながら、体調、友人、バイト、学歴など、思い通りにならない不安と不満で、ことあるごとに心が暴れだす。けれども、私自身の仕事と生活についての、将来への不安と不満もハンパではない。
 帰宅し家族のようすを見て、私の内心のいらだちは一挙に復活し高まり、絶望的な気分に襲われる。不登校の親の会で学んだ、「親も大変だけど、何よりつらい思いをしているのは、当の子どもである」という言葉を思い出し、いらだちを家内や子どもに向けないように、無言で堪える。
 でもそんな言葉をとなえたところで、内心の苦しさは消えない。「なんて思いやりのない」「たかがのこと、何で我慢ができないのか」「人間やさしさを忘れたらおしまいだ」。
 常識的な正義の言葉が心に浮かび上がり、口をついて出て行きそうになる。心の手綱をゆるめればたちまち手が出るだろう。
 私のどんな思いも娘に届かない。わかって欲しいと思う私の気持ちは、ことごとくはじき返される。こちらから口火を切れば、娘からの反発の嵐。最後には、娘が自ら自分を責める言葉へと方向転換。それを別室で慰める家内。私一人置き去りにされる虚しさ。つらい。
 そんな私に「父親と不登校」の記事に関して、編集部の石井さんから送られてきたのが、『不安のなかを行くしかない娘に対して、これだけは信じてほしい、伝えたいと思っていること』の表題。私に遺言でも書けというのか! 
 泡盛を舐めながら、一晩考えるとはなしに、さまざまな考えが通り過ぎる。
 翌朝、目が覚めると私のなかからふと言葉が浮かんできた。それは、『大丈夫、信じているから』。私のなかで思いが動き始めた。
 「信じる」とはおもしろい言葉だ。相手を信じるということは、相手を信じると思う自分を信じることでもある。
 子どものころのことを思い出した。当時私は厳しいいじめに合い内向していた。床に寝転がってTVに興ずる私の背後で、日々の忙しさのなか、黙々と食器を洗い続ける母のうしろ姿。その背中が無言のうちに語っていたのが、『大丈夫、信じているから』。この言葉を通じて私と母は一つになれる。母も私も妻(陽子)も花子(娘)もおなじ一つのいのちから芽生え育っているように思え始めた。そのいのちにはこの言葉が似合う。花子の中にもこの言葉はきっと生きている。まあ、今日もよしとしよう!
 不登校は、こんな言葉に出会うための苦労かも知れない。

2008年7月1日 Fonte掲載