
今回は、助産婦の左古かず子さんにお話をうかがった。このインタビューを皮切りに、出産について、いろんな方に語っていただき、次号より2面で連載していく。私事で恐縮だが、自分がつい最近、出産に立ち会ったこともあり、出産ということを通して、いろんなことを考えさせられている。最初「重症仮死」だと言われたときはアタマがマッシロになるほどショックだったが、その後の子どもの姿を見ていて、生命力ってすごいなと、圧倒された。また、おのずと、いろんな人の出産経験を聞くことが多くなって、出産というのは、本当にいろんなことがあるんだなと感じさせられている。ぜひ、読者の方にも投稿いただいて、生命の側から、いろんなことを見直していく企画となることを願っている。【大阪編集局・山下耕平】
――左古さんは、なぜ助産婦になろうと?
私は、自分が1900gの極小未熟児で生まれたんです。しかも、茶畑で生まれたんですね。父と母が畑作業をしているとき、母がお腹が痛いと言って、父が道端にあるリヤカーを取りに行っているあいだに、ポロンと生まれ落ちてしまった。父がびっくりして取り上げたら、真っ黒で呼吸もしていなかったそうです。父は、臍の緒を鎌で切って、私を懐に入れて、母をリヤカーに乗せて、お産婆さんの家に飛び込んだ。その産婆さんが、「まずは預かりましょう」と言ってくれたおかげで、私は生きることができた。3カ月、産婆さんのところにいて、本当に手厚い看護を受けたそうです。
私は、その産婆さんの名前をもらって「かず子」になったんです。村では、産婆さんは「産婆様」とあがめられるくらいだった。だから、自分にとっても、その名前をもらったということは誇りでした。産婆さんもよく声をかけてくれて、「小さく生まれて死ぬかと思ったけど、育ったんやね。命を大切にせなあかんよ」なんてことを、よく言われました。
そういうことがあって、知らないうちに、自分の人生の目標が産婆になっていたんです。小学校4年生のときには、「産婆になりたい」という作文を書いたのを覚えています。
――助産婦になられたのは、いつですか?
1974年のことです。私が助産婦学校を出て病院に勤務し始めたころは、計画出産が急激に進んでいる時代でした。それが「進んだお産」だとされ、急激に機械が入り込み、機械を使わないお産は時代遅れのように言われていました。
私にしてみると、助産婦学校で習ったことと、現場があまりにもちがったんですね。自然なお産ができる人までを病院に押し込めて医療の対象にしている。自動的に、すべての妊婦さんに、陣痛促進剤と子宮口をやわらかくする薬が処方されていました。自然分娩ができるのは、夜中にかなり進んでから病院に駆け込んで来た人だけ。そういう状況でしたから、常に医師とは闘いでした。
◎ 自然で主体的なお産を
病院に勤務して5年ほどたったころ、ラマーズ法がアメリカから日本に入ってきました。ラマーズ法は、「ヒッヒッフー」で有名ですけど、呼吸法なんかを活用して、お産をできるだけ自然に、主体的に、しかも夫立ち会いでやろうというものです。そういうお産をしようという助産婦が、東京で最初に名乗りをあげて、80年代前半に、全国に広がっていきました。行き過ぎた医療への警鐘が始まったわけです。
しかし、病院では限界があって、やはり医師主導でしかない。いろいろ闘ったけど、これは教育の段階から変えないとダメだと思い立って、その後5年間、助産婦学校に勤務することになりました。
――助産婦学校では、どういったことを学生に?
とにかく、学生に自然分娩をしっかり学んでもらって、自然分娩に自信を持ってほしかったんです。妊婦さんは自然分娩ができるんだと、自信を持って言える助産婦を育てたいと思いました。医者が判断するのではなく、助産婦が判断できるものは、できると言えるだけの根拠を持たないといけない。
しかし、やっぱり限界がありました。どうしても、多くの助産婦は医療の体系のなかに位置づけられていて、そこは、10年がんばっても、変えがたかった。
そこで、そのエネルギーを別の方向に向けたいとも思ったし、もともと助産院を開業したいという思いがあって、思いきって開業助産婦をすることにしたんです。だけど、お金もなかったし、まずは、自宅分娩の助産を出張ですることから始め、地域で顔の見える関係で仕事をしていきました。いまの、あゆみ助産院を開業したのは、1989年のことです。
――助産院開業はめずらしかったのでは?
89年当時は、あちこちから「なんで?」と言われました。行政からも、「そんなものを開業されても検査の方法がわからないからやめてくれ」と言われた。何十年ものあいだ、新たに助産院を開業したということがなかったんですね。「働くところがないんだったら紹介してあげます」とまで言われました(笑)。
しかし、私が思いきって開業したことで、その後、開業する人が出てきました。開業できるんだということが伝わったんです。いま、開業助産婦は増えつつあります。
◎ 点ではなく線の関係
――開業してからと、それまでのちがいは?
それまでも、ものすごく一生懸命やってきたつもりでしたが、申し訳ないけど、出会いが“点”でしかなかったと思います。開業してからは、出会ったときの“点”が、ずっと“線”としてつながっている。ひとつのファミリーだという感じがします。
こちらとしては、赤ちゃんが生まれたら、その子の思春期くらいまで付き合いたいと思うし、お母さんとも、更年期ぐらいまで付き合っていきたいと思う。お産だけで終わりじゃない。
――あゆみ助産院では、すごく食のことを重視していますが
妊娠すると、一人の人間がお腹の中で育っていくわけでしょう。母体というのは、赤ちゃんにとっては育っていく環境なわけです。その環境の居心地がいいのか悪いのかというのは、すごく大事なことですよね。お母さんのとる食が、赤ちゃんにとっては、すべてなわけです。ですから、食のことは考えざるを得ない。何を、どう、誰と食べるか――当たり前のことですけど、ものすごく大事なことなんですね。
もうひとつは、お母さんの精神面も、すごく大切です。お母さんが感じていることは、赤ちゃんにすごく影響する。お母さんが快適だったら、当然、赤ちゃんも快適ですし、お母さんがストレスを感じていたら、赤ちゃんもストレスを感じる。ですから、食事だけじゃなく、妊婦さんの過ごし方というのは、とても大切になるんですね。お母さんには、生活を楽しんでほしいです。最近は、働いているお母さんも多いですから、その働き方も問題になってきますね。
多くの妊婦さんが、すごく無理をしているけれども、それが赤ちゃんにストレスを加えていると思います。毎日を快適にというのは難しいけれども、7~8割を快適に過ごしてきたのか、毎日ストレスを感じて、やっとお産にこぎつけたかというのでは赤ちゃんへの影響がちがうと思います。
――子どもは効率的、合理的にはならないですものね
妊娠とか出産は、いまの社会のスピードだとか効率性が、本当にいいものなのかということを、気づかされるいい機会になっていると思います。ほかの場合とちがって、赤ちゃんを産むとか育てるというのは、すごく時間を必要とするときもあるし、思い通りにはならないこともたくさんありますしね。(次週へつづく)
2000年11月15日 不登校新聞掲載
左古かず子さんプロフィール
(さこ・かずこ)1946年、京都府宇治田原町生まれ。1974年から助産婦となり、5年の病院勤務、5年の助産婦学校勤務を経て、開業助産婦に。1989年、あゆみ助産院を京都市伏見区に開業。新しく助産院を開業したことは、助産婦会に衝撃を与えた。これまでに1500人以上の赤ちゃんをとりあげてきている。また、95年より、JICAの国際プロジェクトで、ブラジルのお産状況の改善にかかわっている。共著に『障害を持った人の性』(明石書店)。


