
今回は劇作家の別役実さんにお話を伺った。別役さんには劇作家として感じておられることはもちろん、教育・不登校・親のあり方についてどう捉えられているなどを伺った。別役さんは、現代社会が普遍性より独自性を求める社会へと軌道修正をはじめている、と語った。
――不条理劇を書いたのはいつごろですか?
1960年代サミュエル・ベケット(※メモ参照)の不条理劇『ゴドーを待ちながら』が日本で上演され、新しい劇作家はみんなショックを受けました。当時は、人間の行動は合理的で、人間自体が論理的に解読できる存在だと位置づける「リアリズム演劇」が近代演劇の主流でした。不条理劇はこの「解読できる人間」に対するアンチテーゼとして、生まれたのです。不条理劇では人間とは得体の知れない生命であって、解読はできないものと位置づけられます。この解読できない部分が人間にとってもっとも豊かな部分だと思います。僕も『ゴドーを待ちながら』にはショックを受けて、もろに影響を受けて『象』という不条理の劇を書きました。
――劇作家としてどういうとき手応えを感じますか?
時代は常に動いていきます。時代がどう変わったかは、あえて表現することではありませんが、演劇自体が時代の変化に順応していないと観客は見てくれません。ただ、役者の感性は時代とともに変化するので、劇作家は役者の感性に対して素直になれば、結果的に時代にのっていけます。どうしても役者の感性とズレた脚本だと役者が自分のセリフにすることができません。役者の声で、自分が時代にのった脚本を書けているのかがわかります。さらに公演で観客を見れば、皮膚から手応えが伝わってきます。それが面白さでもありますが、失敗したときは1カ月ぐらい落ち込むこともあります。ただ、劇作家は直に反応が伝わる場に自分を置かないと、独りよがりになって、ズレていくと思います。
視点をどこに置くか
――劇作家にはなにが必要なのでしょうか?
表現することにおいては視点が重要です。エッセイの『虫ずくし』(ハヤカワ文庫)や『日々の暮らし方』(白水社)はウソを書いています。書くときには「ウソをつくよ」と自分に言い聞かせて意識をひっくり返すと、虚構の自分がすらっとウソをつきます。おそらく自然な意識でいると、すらっとウソは書けません。すらっとウソをつける状態だと、意識がひっくり返っているので、先入観にとらわれず、物事が多面的に見えるのです。普通人の考えつかない見方と、ある自由さを勝ち取れるのです。
脚本を書くときは客観的で神のように人間を観察する視点と、自分の内面を探るような人間自身としての視点が必要になります。僕の演劇では、人間関係を神の視点と人間自身の視点の両方から映します。刻々と変わるこの「関係」をどの視点から見ていくのか、その視点からどれぐらい正確に見ているのかが今日の劇作家にとって一番重要なことだと思います。
――一方で売れない劇はダメな劇だと思われる傾向もありますが
演劇も含めて芸術活動は本来ならばお金と関係ないところで、成立しなければいけない。ただ、社会のシステムがすべてお金によって成り立っています。お金を稼ぐ人だけが社会に参加している、と言われてしまう。金銭で物事を判断しようとする価値観は強くなっていると思います。しかし、どうしてもオリジナルなことをやると、お金に結びつきづらいです。僕も最初のころはとても貧乏でした。しかし、お金に結びつくことは、今までの人がやっていたことになってしまう。そして、お金を稼ぐか、オリジナルな自分の好きなことをするか、と究極の選択を迫られる。そのとき、僕は自分の好きなことをしました。お金を稼ぐ一辺倒になると、エネルギーが続かないし、自分を裏切った気持ちになってしまいます。
関係の力学を
――教育については、どのようにお考えですか?
誰にでも社会的な関係があり、その関係がドラマとなっています。不条理劇ではドラマの主人公は「関係」そのものですし、対人関係が人間社会のなかでもっとも複雑で、つかみずらく、得体の知れないものだと思います。人はこの関係のなかで自分と他人という人間を発見していきます。生きるにあたって、関係の力学を学ぶ、つまり人間関係をどうするのか、を考えることが必要になってきます。
たんに学校に行って、知識を教わるだけ、いっしょに行動させられるだけでは、集団としての目的がないので、関係が生まれてはきません。たとえば、集団で目的を持って具体的な行動をするとき、必然的に関係が要求されますし、関係の力学も学ぶことができます。関係の力学を学べるところさえあればいいと思います。その点、演劇はいいですよ。演劇をすると濃密な関係になるので、関係の力学が学べる。ぜひ、演劇をやってもらいたいですね。
――不登校についてどう思われていますか?
学校に行かないことは賛成です。均一的な学校教育や対人関係のあり方はもう重視しなくていいと思います。演劇では方言を使った芝居が行われています。近代劇には普遍性がないという理由で方言がすべて排除されてきました。しかし、地域のなかでは方言を使うほうが濃密なコミュニケーションがとれます。つまり、普遍性がなくても、地域での濃密な関係を重視した方向に変わってきています。普遍性ではなく「独自性を求める」ことは時代の変化に対して、大きな軌道修正だと思います。その意味で不登校は独自性が重視される時代の先端を行っていると思います。
ただ、問題は関係の力学が学べず、社会感覚や共同感覚がなくなることです。これは不登校だから、働いていないから、特別に学べないのではなく、現在、すべての人が学びにくいと思います。解決の手がかりとして、僕は「発言実行」をおすすめします。発言実行とは、たとえば重いものを持つとき「これから重いものを持つよ」とみんなに発言します。すると、みんなが変な目で見る。これで「持つ」ことが社会的な行為になり、自分の行為が社会に向けての行為であると位置づけられます。これを定着させれば社会感覚、共同感覚をつかむ手がかりになると思います(笑)。
――親のあり方はどうあればいいのでしょうか?
家族はたがいに深く関心を持ち、個性がどの方向に向くのかを見つめ合う必要があります。ただ、従来の価値観で見つめ合っていたらいけない。親の価値観は常に時代から遅れるので、子どもを自分の価値観で育てるとズレが生じます。親は一時代前の価値観でしか育てられないと自覚すべきですし、子どもは自分とはちがう価値観を持っているのだから、個性がどの方向に向くのかわからないと思うべきです。子ども自身がなにか動いたときに、親はその方向性をなるべく認める。そうすると親は独りよがりにならないし、時代にあった子育てができると思います。(聞き手・石井志昂)
※サミュエル・ベケット 劇作家、小説家。1906年アイルランドに生まれ、1989年フランスで亡くなった。高等師範学校英語講師としてパリに行き、幾度かダブリンに生活の場を戻しながらも37年以降フランスに居住。パリで暴漢に刺される、交通事故に遭うなどの経験を持つ。69年にノーベル文学賞受賞。主な作品として『モロイ』『マロウンは死ぬ』『しあわせな日々』など。
別役実(べつやく・みのる)劇作家。1937年満州で生まれる。父親は7歳のときに死亡。早稲田大学在学中から、演劇活動をはじめ、大学を中退。その後、演劇活動を続け不条理劇やエッセイで人気を集める。戯曲作品には『山猫理髪店』『月と卵』などがある。
不登校新聞2001年12月1日号 87号掲載


