谷川俊太郎さん

 小学校か中学校の国語の教科書で「いま生きているということ」ではじまる谷川俊太郎さんの詩を読んだことがあった。国語の先生は、「同じ地球上には戦火のなかを生き延びるためにさまよい、死んでいく子どもがいるが、お前たちは無事に学校へ通って来れていること自体に感謝すべきだ」とまとめていたような記憶がある。そのとき、40名の生徒がすし詰めになっているすぐ眼前の四角い教室もまた、かたちを変えた戦場であるということに、なぜこの先生は気づかないのかと不思議に思ったことがある。
 12月10日、東京シューレ15周年祭へ、ゲストで登場された詩人の谷川俊太郎さんにお話をうかがった。

◆谷川さんの幼年時代は?
 父が大学教師でインテリさんだったから、あまり下町的な近所づきあいをしない家に育ちました。そのうえ一人っ子だから兄弟げんかの経験もない。すごい母親っ子で、母親とのつながりが唯一人間とのつながりだった。でも母子関係って社会関係とは少しちがう。だから人間のつながりが希薄な子どもだったんですね。子どものころから、何か判断するとき友だちに相談することなく、ひとりで悩んできた。

授業中、窓から逃げた

 中学校のころから先生と合わなくなった。
 戦中は軍国教育だったのに戦後から急に民主教育になって教科書に墨を塗ったりして、先生がコロッと変わっていった。その時期の子どもっていうのはすごく人間っていうものがよく見えていたような気がするし、僕も15~16歳のころのほうが「大人」っていうものがちゃんと直感的に見えていたような気がします。
 当時は、ほとんどきらいな教師ばかりでね。そういう先生にものを教わるということ自体イヤだったし、同じ教室にいるのもイヤだった。だから、授業中、窓から逃げたりね(笑)。それは大人のいやらしさが見えてきちゃうこと、管理されること、僕自身の資質っていうことが関係していた。「みんなで一緒に何かやりましょう」というのがイヤなのね。異質な人間どうしが協力し合って何かをすることはいいけど、「同質・均質」はイヤでした。
 とはいっても、校歌を作詞する仕事もたくさんやっているんですけどね(笑)。学校が変わるにはどうすればいいかっていうことを念頭に置きつつ、自分がやる意味があるのはどこか。今までの校歌だったら「富士山が見えます」「川が流れています」だった(笑)。けど、学校の中核をなすのは人間関係でそれをテーマにした。はじめのころは必ずその学校へ取材に行った。つい20年くらい前までは校歌をつくるために生徒集会を開いてくれたりしたんですよ。先生が「どんな校歌がいいか」と生徒に聞く。するとひとりの生徒が挙手して「校歌よか食堂つくれ!」と叫んだりしてた(笑)。そういうのはすごくよくてさ、「その通りだ。校歌つくるのやめたら」というような対話ができてた。ところがだんだんそういうのがなくなってきた。ものすごい型どおりのイメージしか出てこないようになり、「校名を連呼するCMみたいなのはやめようよ」って言っているのに、生徒が保守化してきていて「必ず校名は入れてください」なんて言うようになった。だから僕は最近校歌をつくるときも学校へ行くとイメージがやせちゃうから行かないようになりました。

◆詩を書きはじめたきっかけは?
 自分から進んで詩人になったわけじゃないです。詩を書きはじめたのは18歳ごろですが、そのころは昼間の高校に行けなくなって、定時制のほうに行っていました。そのころは真空管ラジオをつくることなんかに夢中で、詩なんて全然関心がなかった。ところが、友だちに文学青年がいて、ガリ版で同人雑誌つくるから「お前もなんか書け」と言われた。ほとんど書いたことなかったけど書いてみようと思ったのがきっかけ。
 「詩とは何か」とかは、あんまりよくわからないんだけど、書けたんですね。そのうちだんだん欲が出てきて雑誌の投稿欄に投稿するようになった。詩人になりたいなんて思っていなかったし、熱心に詩集を読むなんてこともしなかったですね。
 10代の後半って、「いじめられた」とか、「うちは貧乏なのになんで金持ちがいるのか」とか、社会的なことで悩むはずなのに、さっきも言ったように僕の場合は人間のつながりが希薄だったせいか、いきなり宇宙に行っちゃった。初期の『20億光年の孤独』は人間社会を超えた、場所や時間に自分を規定して詩を書いた。

◆なぜ詩を?
 よく、はじめて詩集を出すまでにダンボール箱5杯分あるとかいう人がいるけど、僕は基本的に書きたくない人で、求められて書くというスタイルですね。自分から進んでメッセージを詩に託したいっていうこともない。というのは、普通に言うメッセージより、もっと複雑で矛盾に満ちたメッセージでなきゃ詩を書く意味がないと思うから。受けとられた人とのなかで初めて詩が成立すると僕は考えている。詩は、時間軸をばっさり切っちゃって、今この瞬間というものを提出する。ふだん人間は、地面にくっついて生活しているけど、詩というのは高いところから俯瞰できるようなところがある。

◆学校に行かなかったことがあるそうですが
 僕は学校と合わなかったから、どうしても学校に行かないほうの肩を持ちますね。学校に行かないということは、社会とどう折り合いをつけるかっていうことだと思う。もし自分に詩の才能がなかったらどうなっていたか全然わからない。詩が書けたから社会と折り合いをつけられた。自分が学校に行けなくなったらミスフィット(適合できない)という感覚が一番強かったと思うんです。しかし、ミスフィットであるということを活かす道はあって、それは、どちらかと言えば芸術家とか自由業の世界。

自己肯定が強かった

 僕の場合、なぜ学校に行けないのかなんて全然考えなかった。父親は僕のことを子どものころはサルだと思っていたからコミュニケーションしようがなかったんだけど、母親は僕がふて寝してたら枕元で泣いていたってこともあったね。そのとき僕は「あ、なんか悪いかな」と思うようなことはあっても「母親が泣いているから学校に行こう」なんて発想はしなかったですね。自己肯定が強かったんでしょうね。
 自由になるには「経済的自立」というのが一番大きいと思うんですよ。心の問題が経済的自立をはばむという事情があるからよけい難しいとは思うんですけど、自分ひとりで食っていけるって自信を持てたらいいんじゃないかなぁ。
 僕自身、物書きでやっていけるようになる30代のはじめまでは親のすねをなんらかのかたちでかじってましたが、それで劣等感を抱くということはなくて、むしろ「金ふんだくって当然」っていう態度でした。

◆「21世紀と子ども」について一言お願いします。
 そういうのは拒否したいですね。「全然いつもと変わらない新年じゃん。どこがちがうんだよぉ」ってなほうがいいんじゃない?  メディアは騒いでいるけど、不登校新聞くらいはそういうのやらないで、「いつもと同じ繰り返しで、でも波には同じ繰り返しはないんだ」っていう矛盾したことを言うのが一番いいんじゃないかなぁ(笑)。

◆ありがとうございました。

谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)
1931年、東京に生まれる。21歳で第一詩集『20億光年の孤独』を刊行。以来さまざまな実験的な試みをして、日本語の詩の世界の豊かさを広げてきた。詩のほかにもエッセー、絵本、童話、脚本、翻訳など幅広く作品を発表。詩集『62のソネット』『女に』『はだか』『ことばあそびうた』『みみをすます』『モーツァルトを聴く人』『真っ白でいるよりも』『クレーの天使』など作品多数。

※不登校新聞2001年1月1日 65号掲載