小さいころから「優等生」に縛られて生きてきて、がまんしていることにも気づかないほど、がまんさせられていたという哲学者の中島義道さんは、自らの体験も踏まえ、もっと自分を大事に、自分の感受性に合った言葉を開発することが大切だと語ってくれた。
◎子どものころのこと
私は、何についても、簡単に決めつけてしまうことが苦痛なんですね。それは子どものころから、そうでした。よく「子どもは元気にしなさい」とか言われますよね。それがとてもイヤで、だけど自分でも何がイヤなのか、言葉ではうまく説明できない。そうすると、顔がこわばったり、何かすごく怖くなったり、言葉にならないかたちで出てくる。自分でも、自分がおかしいように思えたし、とても苦しかったですね。
人間なんて割りきれないものだし、わかりにくくて、捉えどころがないものですよ。それなのに親や教師は割りきろうとしてしまう。
それから、私は優等生で、教師や友だち、周りの人は、みんな私に対して「やさしく」接してくれていたんですね。けれども、それは、あたりさわりのない表面的なもので、誰も私に深く踏みこんでくるようなことはなかった。そういうなかで、私は、いつも親や教師の価値観の中におさめられており、「優等生」に縛られて生きていました。ですから、
不登校するなんて思いもつきませんでしたね。がまんしているという意識がないくらい、がまんしていたように思います。今から考えると、とくに中学生のときは、地獄でした。
◎不登校について
これだけ不登校があるのは、学校が子どもにとって適した場ではないという、子どもたちの身を挺した批判だと思います。それに、情報がこれだけたくさん入ってくる社会で、子どもを学校だけに留めておくのは無理ですよね。
だけど、不登校の中にあるものも、ひとまとめにしてはいけないと思います。大人が先走って言葉でまとめてしまって、「学校に行かなくていいよ」と言ったところで、本人がそう思えなければしょうがないし、本人の中にある葛藤は、なかなか言葉になりにくいものだと思います。本人だって、これでいいと思えなくて困っているわけでしょう。それに、大人自身が本音でそう思っていなければ、ウソくさい言葉にしかならない。
とくに学校では、言葉にウソが多いですよね。それでいて、それに疑問を持つことも許されない。
ウソくさい言葉に、子どもはマヒしています。子どもには本当の言葉しか伝わらないし、子どもが言葉にマヒしているのは、大人の問題だと思います。
不登校は、子どもにとって大変なことだと思いますが、それを養分にして生きていくこと、養分になるように変えていくことが必要なのではないでしょうか。そのためには、難しいけれど、時間をかけて、なるべく言葉にならないものを言語化していく作業が必要だと思います。
◎痛んでも充実している
私は、痛んでもいいから、充実しているほうがいいと思っているんですね。いやなこと、苦しいこと、自分と向き合うことによって、自分が育つし、それが、その人の養分になるのだと思います。
そういう意味で、何の疑問もなく学校に行っている人のほうが、自分と向き合う場面がないぶん、不幸かもしれません。痛みはないけれども、そのぶん根本的なところで空虚かもしれないのです。
◎今の子どもたちの現状について
今の子どもたちは、あきらめさせられているのだと思います。話し合う言葉も奪われている。言葉が奪われているからこそ暴力で訴えるのに、暴力も抑えられるとなると、あきらめしかない。ナイフを持つ子どもは、自分の言うことを相手にされてこなかった子どもたちだし、ナイフを持つしかないほど、言葉狩りをされてきたのです。言葉を奪うのは、生命を奪っていることに他ならないと思います。
◎もっと対立していい
日本人は、人に迷惑をかけないことを大事にしているし、自分を出さないようにしている。それはしかし、自分たちと異なるものを排除する社会でもあります。自分と他者のちがいを、対立する前に抑えてしまう。
もっと、対立していいんじゃないでしょうか。自分を大事にすることが大切だし、エゴイズムであっていいのだと思います。他者とぶつかって、そこで考えればいい。開発しなくちゃならないのは、自分の感受性に合った言葉です。エゴを抑えてしまうと、喜びも怒りも希薄になって自己発話ができなくなってしまう。
人間はエゴイスティックなものだし、社会は不条理なものだと思います。しかし、そこでエゴを抑えたり、対立を避けたり、ごまかしてしまうのではなく、対立し続け、悩み続けて生きていけばいいのだと思います。
中島義道(なかじまよしみち)1946年福岡生まれ。哲学者。
1999年5月1日 不登校新聞掲載


