最新号トピックス

2009.09.01

落合恵子さんインタビュー

落合恵子さん ――落合さんは、いつも子どもに目を向けて活動をしておられますが、いま、起きている子どもの事件などについては、どのようにお感じですか。  私のなかでもわからないことはたくさんあります。最もしたくないことは、分析して絶対化してしまうということです。人間の気持ちや感情の揺れを見えなくしてしまう。そういう部分は、正直に言ってわからないというほかなくて、それをわかったものとしてどんどんすすめてしまってはいけないと思います。  「心の教育」などとも言われていますが、心は自分なりに自分で育てていくものであって、外側から教育できるものではないですよね。  ただ、言ってることは、いま起きている多くの事件は、社会システムと深く重なった事件であって、そういう視点が落ちると、個人にすべてが集約されてしまう。マスコミの論調のように「フツーの子がキレた」と。  誰しも、人を刺したり傷つけたりすることがいいことだとはいえないし、それは犯罪には違いないけれども、しかしその背景にあるものは何なのか。そういう状況に追いこんでいるのは何かという視点が必要だと思います。それに、「フツーの子」ってなにかしら。人の数だけ「フツー」はあるのに。そして、「キレる」までに、ためこんだものがあるはずなのに。 ――落合さんの子ども時代を思い起こされてみて、何かいまに通じることはありますか。  私は「私生子」として生まれました。私はただの子どもとして生まれてきたのに、社会が「私生子」「非嫡出子」といったレッテルをはり、戸籍に登録され、まわりからも同情されたり、明るくしていると逆に、「どうしてそんなに明るくしているの?」と聞かれたりする。そういうところで、フツーという基準を決めつける社会の息苦しさを、小さいときから感じていたように思います。 ――フツーとは何かが問われなければいけませんね。  数年前に書いた本で、「あなたの庭では遊ばない」(講談社)という小説があります。これは、母と私の関係と、母と祖母がどういう親子関係を生きたかということを描いたものです。母は、状況のなかで疲れきって、かなり強度の神経症をかかえていきました。  母は一時期、本当に一間の部屋から出ることができないこともありました。。その母が、ある日「私はこの状況のなかにいるのが一番ラクなのよ」と言ったんですね。私は、彼女にとってそういう状況がラクならば、いまこの状況しか考えられないじゃないかと思いました。ベストかどうかはわからないにしても、ベターであるならばいいじゃないか。いま、ここにある彼女の個性として受け入れるしかないじゃないか。彼女に見える景色をむしろ私が学んでいこう、と。 ――不登校の場合でも、子どもが閉じこもったりして、親がフツーにしようと無理なことをすると、もっと苦しくなりますね。  そういうとき、親が見ているのは、自分のなかにある「フツー」という幻想ですよね。そこにもどすことで、ホッとしようとする。  私の母は強迫神経症で、自分の手を指紋が消えるくらいまでずっと洗いつづけたりしていた。それをやめさせることがフツーにもどすことになるわけですが、そんなことをしたら、どこにも自分の心の居場所がなくなってしまう。それならば、強迫神経症を一つの居場所にして、そこから見ていってもいいんじゃないかという思いが、私のなかにありました。  だけどそれが、社会差別のなかで受けた傷の結果のシェルターならば、差別そのものをなくしたとき、いつかシェルターのなかから出ていく日もあるかもしれないと思ったのです。 ――差別の問題はすべてかさなるものがありますね。  それは、子どもの問題にも、女性の問題にも、お年寄りの問題にも、すでに「障害」をもっている人がかかえる問題にも、通じる問題だと思います。それぞれがそれぞれ色に輝くために生きているにもかかわらず、社会はそれを一色に染めていこうとする。それはイヤですよと申し立て、その壁にどんなに小さくてもいいから自分の素手で風穴をあけようと、壁をたたく。素手でたたくというのは、必ず手が切れたり、傷ついたりするものだけれども、やっぱり、不愉快なものは自分の手でこわしたいという気持ちはあります。  私は一〇年間アナウンサーの仕事をしていましたが、当時は女性アナウンサーというと、男性キャスターのいうことにたいして、かわいく「ハイ、ハイそうですね」とうなずく役割だったんですね。そういう世界にいて、周囲に摩擦を起こすよりは、だまっちゃったほうがいいと、のみこむことで自分のなかにできた傷というのがあります。  しかし、やがて気がついたんです。周囲とたたかってできた傷のほうがまだ治りが早い。イヤだといわずに内側にできた傷は化膿しやすい。傷つくのなら、異議申し立てをした結果、負う傷の方を選びたい。 ――不登校の場合でも、母親はつらい立場にたたされることが多いですよね。  何か子どもに問題が生じると、必ず母親が責められて、母親の失点、母性の喪失とか母性の欠如とか言われやすい。なぜ父という男性は問われないの? それだけ女性に負担を荷す社会ということですし、父親はもっと子どもにかかわってもいい。  実際に母親は、夫から学校に行かせるように求められたり、親族に責められたり、いろんなところで板ばさみになってしまうわけですよね。そういう関係性のなかで、より弱いものが切り捨てられていってしまう。母が切り捨てられ、さらに子どもと親では、親のほうが力関係では強いわけですから、悲しいことに被害者である女性が加害者に転換してしまうわけです。しかし、だからといって、私は女性を責めようとはまったく思わない。やはりシステムが生み出す問題ですよね。 ――少数派というのは、いろんなキツさがありますよね。  フェミニズムの活動なんかをしていると、いろいろ言われます。どうしたって少数派というのは、多数派からすると敵になってしまうわけです。こちらが敵とは思っていなくても、敵だと思われて、その結果失うものというのもたしかに多いです。しかしそこで失うものと、自分がいまあるシステムに媚びて内側から失うものとどちらをとるのかといったとき、私は自分にとって心地のいい方向に進みたいと思う。「私」があって社会があるのですから。 ――日本の社会全体が、多数派の価値観でやってきていきづまっている感じがすごくします。このいきづまりの突破口は、少数派の人たちのなかにあるのではという気がしますが。  まったくそのとおりだと思います。みんな気づいてきていると思うんですね。自分を殺して一生懸命世間にあわせて、社会に受け入れてもらおうと思っても、会社が倒産したりすることもあるし、もはや、寄ることのできる大樹なんてないということに気がつく時代になってきている。だからこそ、ちがう生き方をしている人たちに耳を傾けたい、でもちょっとシャクだ――そういうところで非常に揺れている時代じゃないかと思います。  世の中の常識を変えたり、こっちにもっと気持ちのいい原っぱがあるよということを示してきたのは、常に少数派なんですよね。少数派であることはつらくもあるし、ひらかれていない道を歩くことでもあるけれども、自分が歩いたあとをふりかえったときに、その足あとができていればいいことじゃないでしょうか。少数派であることに誇りをもちたいですよね。 ――いま一番感じておられること、読者に伝えたいことがあればお願いします。  昔から好きな言葉で「I can’t live your life」という言葉があります。「私はあなたを生きられない」あなたを生きることができるのはあなたであり、私を生きることができるのは私なのよ――人間の距離感をちゃんと見定めて相手の尊厳をみつめた言葉で、大好きなんですね。ただし、いつもいつもキチンとみつめていくというのは疲れることでもあるから、もう一つ好きな言葉が「Take a vacation before you burn out」で、「あなた、燃えつきる前に休みをとろうよ」という意味です。いい意味でズル休みをしたほうが人生ステキだよという気がします。この二つを交互に自分のなかで使っていきたいなと思っています。 ――私たちも、不登校の子から自分らしく生きることや休むことの大切さを学びました。本当に大人も子どもも、自分を押しころすことなく、自然体で生きていけたらいいですよね。お忙しいなか、ありがとうございました。(聞き手:奥地圭子) (おちあい・けいこ) 1945年年生まれ。作家・元文化放送アナウンサー。1967年文化放送にアナウンサーとして入社。退社後、作家に転進。1976年に児童書籍専門店「クレヨンハウス」を開く。