大石又七さん

 1954年、ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行ない、近くにいた第五福竜丸(メモ参照)が被爆した。今回は第五福竜丸乗組員の大石又七さん(68歳)にお話をうかがい、事件当時のようすや事件後の人生、原子力発電事故に対する考えなどをお聞きした。

――事件までの経緯とようすを教えてください
 14歳から漁師になり、20歳のときに乗ったマグロ船が第五福竜丸です。1954年1月22日、第五福竜丸は23人の乗組員を乗せて、焼津港(静岡)を出港しました。3月1日に14回目の最後の延縄漁を行なっていました。そして、午前6時45分に事件が起きました。
 朝、私が仮眠していたとき、光が空をサーッと流れ、空が黄色い光に覆われました。徐々に空を覆った光に赤色が加わり、夕焼けのような光景になりました。2~3分間は光が空を覆っていたと思います。核実験場からは160㎞ほど離れていたので、爆発は水平線の先にあり、乗組員は何が起きているか、わかりませんでした。
 約10分後、海の下からドドドッと重い地鳴りのような音がしました。今度はデッキに伏せたり、食事をしていた者は持っていた皿を投げ出して、反射的に体を伏せました。音と光がバラバラにやってきたのです。
 異常を感じていると、巨大なキノコ雲が見えました。ジェット気流に乗ったのか、風上にいる私たちのほうへ、すごいスピードで迫り、あっという間に空を覆いました。2時間後、完全に空が雲に覆われ、雨とともに「死の灰」が降ってきました。灰は雪のように真っ白で、体に触れても熱くも冷たくもなく、何も感じませんでした。しかし、2~3日してから、灰に触れた部分が火傷をしていました。
 とても不安でしたが、核実験だとはまったく思いませんでした。日本は原爆が落とされたとき、アメリカと友好関係を築くため、報道規制をして原爆のようすを伝えませんでした。だから、当時は核兵器や放射能に対して、私たちだけではなく一般の人も知識を持っていませんでした。

――帰港後はどうなったのでしょうか?

 3月14日に焼津港へ帰港し、乗組員は全員、即入院しました。帰ると新聞などで事件が毎日のように報道され、はじめて核実験だったと知り、国民は水爆の知識をはじめて知ったのです。乗組員は1年5カ月後に退院しました。
 アメリカ政府は、「核実験は自由諸国を守るため」とし、正当性を訴え、謝罪しませんでした。日本政府へは、補償金ではなく「見舞金」として200万ドル(当時7億2000万円)を支払い、根本的な問題を解決しないまま、「政治決着」しました。
 私は、一部の人から八つ当たりやいやがらせを受けました。退院から2年後に東京へ出て、クリーニング屋をはじめ、約15年間は被爆者であることを隠しながら生きていました。

――なぜ、第五福竜丸事件の問題性を訴えようと思ったのですか?
 私の最初の子どもは死産でした。乗組員は被爆者であることを隠しつつ、11人が亡くなっています。いったいあの事件は何だったのかと、事件を調べていくと、納得のいかない事実が見えてきました。仲間の死も事件と関係しているとわかりました。しかし、仲間は被爆が原因の死と見なされず、「不摂生な生活をしているからだ」とも言われました。私は「そうじゃないんだ」と言いたかった。隠れて生きているより、問題を訴えようと考えが変わったのです。

◎48年ぶりのマーシャル諸島

 事件現場と190㎞離れたロンゲラップ島民から話を聞きました。とてもひどい扱いを受けています。まず、事件発生後から51時間後に救出されました。ロンゲラップ島より事件現場から離れた島にいるアメリカ人は34時間後に救出されています。より遠くの事件現場にいるアメリカ人のほうが早く救出されるのは不自然です。
 ロンゲラップ島民は事件より2年後に島に帰らされます。放射能汚染された島で、食料を栽培し、水を飲みました。それは、長い時間をかけて放射能を体に蓄積することになります。多くの人がガンや甲状腺などに症状が出ています。完全に二重被爆をさせられたのです。アメリカは事件後も島民の観測を何十年間も行ないました。
 これらの事実から、核の影響を見るために人体実験をしたと考えられます。

――JCO東海村事件など原子力発電の事故についてどう思われていますか?

 JCO東海村事故では、責任を工場で働く人に負わせています。しかし、一番責任を負うべきは政府です。なぜならば、第五福竜丸事件の問題を政府が隠し、核を恐ろしいものとせず、大事なエネルギーとして国民に伝えたのです。だから、従業員も軽く扱ってしまいました。政府の責任なしに工場への責任追及はできないと思います。
 もうひとつ、実はJCO東海村事故と第五福竜丸事件がつながっているのです。第五福竜丸事件は、アメリカが膨大な賠償金を支払うべき事件です。日米の両国内で核実験反対の声も高まりました。こういった声を抑えるため、日米間の水面下で政治的な動きがあったと思われます。

◎第五福竜丸と引き替えに

なぜなら、アメリカは200万ドルの見舞金だけで謝罪をせず、日本から責任追及をされなかったこと。事件の翌年に平行線をたどっていた原子力協定が急に日米間で結ばれ、東海村に日本初の原子力発電所が建ったこと。これらを見ると、日本政府が第五福竜丸事件を原子力技術と原子炉を早急に導入するための恰好の取引材料としたと考えられます。ですから、日本の原子力発電は、第五福竜丸事件の被災者が人柱になっているのです。

――48年間をふり返って、どのような思いを抱かれてますか?

 第五福竜丸事件は自然発生で起きた事故ではなく、人の手による加害の事件です。しかし、加害者であるアメリカの、被害者への対応は非常に矛盾しており、大きな不満を持ちます。現状では、第五福竜丸事件が終わったとは思えません。私は、最終的には、地球上から核をなくすことが第五福竜丸事件の終わりだと思っています。核が地球上にあるかぎり、かならず同じ問題が起きてくると思います。

――ありがとうございました(聞き手・石井志昂)

2002年6月15日 不登校新聞掲載