「生き物としての子どもが、生き物としての原則に沿って育つという、子ども自身の自然が歪められ壊されていっている」。
渡辺さんが84年に著された、『児童精神科』の一節です。日本の子どもたちが――そしてそれゆえ大人たちも――苦しむ現況を、渡辺さんは「生き物としての不自然さにある」と看破されました。そして、人間の自然と生き物の原則をとりもどしていく希望は、治療にではなく共生にあることを、医療を超え、自らの生き様を通して生涯、示し続けてこられました。
第二次世界大戦の爪あとがまだ生々しく残る1950年代、一直線に、貧困のなかの共存から、強欲のための競争への道を歩み始めた日本に、アメリカから児童精神医学が導入されたのは、渡辺さんが医師になられた翌年でした。欧米にもまだ教科書すらない時代で、「自閉症」「学校恐怖症」など初めて聞く障害名に、医師も患者も戸惑いを覚え、誰でも対等な立場で意見を交換し議論できる場として、児童精神医学懇話会が誕生します。関東の拠点となったのは、都立梅が丘病院と国立国府台病院児童病棟(現・国立国際医療センター国府台病院児童精神科)でした。私が小児科医になったとき、渡辺さんは、後者の医長という要職にあり、日本の児童精神科を先導する一人でした。
懇話会は、やがて日本児童青年精神医学会に発展し、ともに未来を語り合った者も、医師は学問的成果を得て名誉を得、患者は社会の底辺に追いやられるというふうに、二分化されはじめます。そのなかで、渡辺さんは、川端俊彦さん、小沢勲さん、河合洋さんなどとともに、最後まで初心を貫かれ、数少ない私の敬愛する大先達でした。先年河合さんが昇天され「巨星落つ」と時代の変化を感じていた私は、今回の訃報を受け、方向感覚を失っていくような喪失感を覚えました。
じつのところ、学会や集会でお目にかかることはあっても、渡辺さんとお話したのは、ただ一度だけです。それも、心待ちにしていた憧れの会見からは、ほど遠い出会いでした。渡辺さんは『児童精神科』を出版したあと、一線を退かれ、私は精神科医に進路変更をした直後のことでした。急遽、渡辺さんの医療ミスを追及せねばならない、最悪の事態に直面したのです。私を含め、医療ミスを犯さない医者はいません。しかし、すべての医者は、他人の目から、いやそれ以上に自分自身の目から、ミスの事実を隠蔽しておきたいという衝動を持っています。追求する側も、わが身をふり返れば、おそろしくて邪心にふりまわされます。
真の人間性は、このようなときに発揮されます。恐怖と緊張感に怯えながら話し合いに臨んだ私に、渡辺さんは、淡々といっさいの弁明を排してありのままを話してくださいました。ミスをいっさい隠そうとなさらず、ただひたすら患者さんのために何ができるか、その一事だけを気にかけておられました。最後に深い許しを感じたのは、追及される側ではなく、する側でした。これほど虚心坦懐で誠実に、生き物の原則に沿いながら人間としての自在さを生きぬかれた医師を、私は、ほかに知りません。
以後私にとって渡辺さんは、きらびやかな巨星というより、人生の道標、北極星でした。天国でお会いするときは、私も、もっともっと自在なお話ができることを楽しみに、心からご冥福をお祈りします。(小児科医 石川憲彦)