1999年不登校新聞社秋の集いで開かれた渡辺位さんの講演録を掲載する。渡辺さんは、「不登校を生きる」というのは、子どもをどう生きさせるかということではけっしてなく、大人の生き方が問われることだと語っていた。

◎当たり前のことが…

先日、カゼなのかアレルギーなのか、ノドが痛くなっちゃいましてね。とにかくひどくて、寝ていられない。とうとう一晩座って過ごしました。ふだん自然に食事をしたり、唾を飲んだりしていたことが、いちいち意識しないといられない。何気なくしてきた、ごく当たり前のことが、ちょっとしたことで特別なことになる。
ノドの痛みがおさまって、苦しみから解放されると、ふだん当たり前だと思ってたことが、とてもありがたいことに感じられるんですね。
次に、極端なことをいうようだけど、死ぬとか生きるとかいうことです。人が死ぬことは特別なことみたいに思うけど、人は必ず死ぬんですね。だからこれから、「うちの子はさきざきどうなるんだろう」と言われたら、「まちがいなく死にますよ」と言おうと思っています(笑)。生があれば死があるに決まっているわけで、死なんて、ごく日常的なことなんですよね。だけど、それを非日常的なことに思ってしまう。
このようによく考えてみると、いつもは当たり前と思っていることでも、当たり前(日常的)ではなく、非日常的に見える出来事も、きわめて日常的なことなんです。不登校の問題なんてのは、本当はそういうことなんだろうと思うんです。
大人は、子どもは朝「行ってまいります」と学校に出かけ、夕方「ただいま」と帰ってくるのを当然に思っていますね。そういう日常にひたっていると、子どもが不登校になると、ただごとではないと思ってあわてちゃう。あわてて子どもを病院に連れて行って、薬をいっぱい飲まされていたなんてムチャクチャな話も現実にあるわけです。
ですから、日常性と非日常性ということを、もう少しキチッと考え直したほうがいいのだと思います。あえて言えば、その日その日が「特異日」なんだと考えたほうがいい。
今日はここで話をしている私にしても、一昨日は学校へ行っていた。昨日は家にいました。一昨日も昨日も今日も、私は異なる場面で異なることをやっている。その日その日が異なるわけです。まさに「日日新たなり」で、その日その日が特異日。日常だと思ったその日その日が、非日常なんですね。毎日何事もなくみたいに思っていながら、先日のトルコの地震のように、いつ何がどうなるかわからない。それでも自分が自分でいられるかどうかが、大事だと思います。

◎日本の家庭はお化け屋敷!?

不登校になると、その結果、引き起こされてくるいろんな状態がありますね。夜昼逆さになるとか、閉じこもるとか、暴力的になるとか……。そこまでいかないにしても、「明日は学校に行く」などと子どもが言うと、親はつい希望的な観測をする。不登校は特別なことだと思うから、そういう言葉に心が動く。でも、子どもたちが「明日は学校に行く」とか「働く」とか言うのは、煮つめてみたら、それは家庭内にいる場がない、いたたまれないということなんだと思います。親がどこかで不登校に偏見をもっているから、子どももそれを感じれば、親にそういう思いをさせていることに対する負い目をもつわけです。それでは、針のむしろの上に座っているようなもので、いたたまれない。だから自分にとって安心して行ける場所でなくても、行こうとする。そういう気持ちの表れなんですね。
でも現実には行くに行けないので、あせったり自分を責めたりで、いろんなことが起こってくる。そうすると、子どもが「学校へ行く」と言うのを喜ぶというのは、「あんたは家に安住しちゃいけない」と言っているようなものかもしれませんね。
子どもが「人の目が恐い」とか「人が信じられない」ということが、よくありますが、それは、自分自身が信じられないということでもありますね。自分を信じていないということは、人から信じられていないと思っていることでもある。つまり、それをお母さんに言ったとすれば、お母さんから僕は信じられていないんじゃないか、信じてほしいということだと思います。
それは、不登校である自分自身の存在に対しての疑惑でもある。自分自身に対する自己評価が低くなって、自分の存在そのものに対して否定的になっている。「なぜ自分はいるんだろう」「なぜ生んだんだ」なんて言いますよね。
そうすると、その子自身の自己評価を低くさせている価値基準をあおり立てたり、さらにその価値基準を評価するような社会の一人になっていないかどうか、大人自身が考えてみる必要があると思うんですね。その子が人の目が恐いとか自信がないとか思うとすれば、そのもとは、自分たちの、子どもとの関係の中にあるのかもしれない。
閉じこもりや暴力でも、同じことが言えます。学校に行けなくて申し訳ないとか悪いなとか思っている。思っても、自分ではどうにもならない。行くに行けずに布団をかぶっているところを布団を剥ぎに行ったりすると暴れたりする。「窮鼠猫を噛む」という言葉がある。追いつめられたネズミはネコにも攻撃を加えるという意味ですよね。そういう状態での暴力。また、本人は「僕のこと信じてよ」とか「安心していられる家庭が家にはないんだよ」とか、そういう意味でのコメントを発しているのに、それに親が気がつかないでいる。本当は家族に助けを求めたいんだけど、それが通じないから、その気持ちが逆転した暴力。
これは大人にもよくあることです。夫婦どうしでも、外でのストレスを家庭で癒そうとする甘えた気持ちがあって、それが通じないと、逆上したりする。
しかし、親のほうは不登校を非日常的、異常な状態だと思うから、子どもに冷たくなってしまう。そういう時こそ、保護者なら保護する役割を果たしてくれるといいんだけど、それが逆になる。親は子どもが不登校状態になると化けてしまう。私はそういう意味で日本の家庭は「お化け屋敷」だと思うんです(笑)。
そういうさまざまな背景があるにもかかわらず、ただ表面だけ見ていると、それがいいか悪いかの価値基準の中で切り捨てられたり、問題にされたりする。表現されてくることは非日常に見えるけど、それは人間誰しもある日常的な心の動きの一つの表れにすぎないのだと、見直してみる必要があると思います。

◎ わかろうとしなかったときにわかる

陳腐な言葉になったかもしれないけど「学校信仰」という、学校は絶対必要だみたいな感じが、いまだにありますね。学校中心に子どもが評価されたり仕向けられている。
「信仰」という言葉をあえて使えば、私は「学校信仰」から「子ども信仰」へと考えたいんですね。「自然信仰」といったほうがいいかもしれません。不登校というのは生きものとしての自然な防衛の反応なのだと言ったことがありますが、自然のあらわれとしての不登校ということを考えたとき、何事も生きものの生命としての原理・原則の中でいろんなことが起きてくるわけですから、子どもの仕草やあり様というものも、もとを正せば「自然」ですね。もっと言えば「宇宙的」なんです。
それに対してわれわれがどれだけ素直でありうるか。学校ってのは人工的なものですからね。その人工的なもののほうにウエイトを置いてしまっている。
最近はあらゆるものが人工環境になっているでしょう。夏でも涼しかったり、冬でも暖かかったり、夜でも明るかったり……そういう中で暮らしていると、人工環境そのものが日常になってしまう。そうすると、自然の中で起こるさまざまな現象が異常にとれることがある。われわれが自然から遠ざけられた結果起こる問題は大いにあるだろうと思います。そういう意味で、もう一回自然というもののあり様を見直したほうがいい。そこで子どもの生きざま、あり方というものを気づき直すことができるかもしれない。
不登校は、誰にでもありうる日常の現象で、特別なものではない。非日常的なことでなくて日常のこと。それを非日常的、特別事態とみて、こんなことではこれから先どうなると考えて、本当はもっと大切な、いま目の前にいる子どもとのかけがえのない関係を大人はおろそかにする。日々の生活は日常的と思ってるけど、一期一会の非日常なんです。
不登校を生きるということは、けっして子どもをどう生きさせるかということではないと思うんです。要するに子どもだけを対象化して考えるのではなくて、それにかかわる大人自身が不登校を生きる以外にないのではないでしょうか。
私は自分の生活が「ネコ化」しちゃっているんですね(笑)。ネコと暮らしているとネコはネコ、自分は自分と切り離してはすまなくなってしまう。
そういう意味で不登校とかかわる大人がいたら、その大人自身も「不登校化」する。つまり、不登校を生きるということは、まさに大人自身に求められることではないでしょうか。子どもに「寄り添う」とか「ともに生きる」とかいう言い方が多いけれど、それだけでは言いつくせない。
大人はどうしても子どもを何とかしようとする。でもそうではなくて、もっと謙虚になってみる。白紙になるというか。不登校を生きるということは、大人が、立場はちがうけど、自分も不登校状態を生きるということなんです。
西行の「心なき身にもあわれは…」という秋の夕暮れを歌った和歌があるでしょう。無心、無になった人が秋の夕暮れの情景に感じるというのは、ある意味では矛盾している。心がある人間だったら、その趣きを対象化して見るかもしれない。けれど、西行は無心だからこそ、秋の夕暮れのトータルな趣きと一体化することができる。
大人が不登校を生きるということは、理屈でわかった上でということじゃない。わかろうとするということは、あくまでも、わかる者とわかられる者と乖離していくことになりますからね。離れたらわかるわけがない。わかろうとしなかった時にわかる。だから、子どもを理解するなんてことはやめたほうがいい。理解しようとすればするほど、ますます「りかい」ではなく「かいり」してしまう(笑)。要するに、こちらがどれだけ無心であるのか、素直であるのか、ということです。
つきあうか、つきあわないか以前のところで、子どもとともにあるというところが、不登校を生きるということにつながるのではないかと思います。(抄録)