最新号トピックス

2009.06.15

川端利彦さんインタビュー

今回は、11月8日に開かれた子どもの人権と精神医療を考える市民学習会から、川端利彦さんの講演抄録を掲載する。川端さんは、ご自身の経験を話されるなかで、医療にかぎらず、教育も、大人の価値観も、せせこましくなるばかりだと、柔らかい語り口のなかにも鋭く批判されていた。  私は大学卒業後、インターンで1年間、ある精神病院に行きました。そのとき出会った先輩の医者がたいへんよかったんですね。  私は、ある寝たきりの患者さんに食事を食べさせてくるよう指示されました。しかし、私がどんなに話しかけても、患者さんは身じろぎもしない。医局にもどって、先輩に「ダメです、なかなか食べていただけません」と言うと、「そうやろうな。あの人、難しいからな。もういっぺん行ってみろ」と言うので、行ってみると、食事は空っぽになっていました。「やられた」と思いましたね。次には、だまされるものかと「トイレに行きますからね」と言って、そっと部屋のドアのところに立って見ていたんです。しかし、ちっとも食べようとしない。そのうち、本当にトイレに行きたくなって、行って帰ってきてみると、食事が空っぽになっていた。そのとき、「ああ、見られているんだ」と、つくづく感じました。こちらが患者を観察する以前に、医者は患者さんに見られている。患者さんは、私がどういう存在なのかをよく見て、行動しておられる。そういうことを、おおいに学びました。

子どもに教わる

 その後、大学病院の精神科に入りました。ちょうど子どもの精神科を始めるときで、まったく手探りの状態のとき、京都市の児童相談所から学校に行っていない子どもたちの実態調査の協力依頼がありました。  私たちは家々を訪ねたんですが、たとえば祇園の近くでは、「子どもさん、学校は?」と聞くと、「学校? 学校なんか行ってたら三味線の稽古がでけへんやないか。学校行って舞妓になれますか?」とはねつけられました。そういう時代でした。  しかし、なかには、学校に行かないで家にいる子もいました。ある子は、自室で、実にきれいな折り紙の制作をしていた。彼は「本当は外に出て遊びたいよ。だけど、遊ぶところなんてあるかい。近所の目もうるさいし」と言うんですね。彼がキャッチボールをしたいというので、大学病院の敷地に誘ったところ、本当に元気にキャッチボールをしていました。それから彼はだんだん変わっていきました。  また、ある自閉症の子と、4歳から2年半ほど、付き合ったことがありました。その子は、口ぐせのように「雲が来たら雨が降る。夕立ちたたけばびっくりする?」とよく言っていたんです。  それから30年近く経って、ある知的障害者の施設で、たまたま彼と出会ったんです。そうしたら出会ったとたん、彼は「夕立ちたたけばびっくりする?」と言ったんです。まだこんなこと言っているのかと思ったら、ふだんはまったく言わないそうで、職員の人は初めてだというんです。私の顔と結びついて、その言葉が出てきた。これには、こちらが感動して、涙が出てきました。  そういうなかで、私は子どもというのはこういうものなんだ、本を読んで、勉強して子どもを診るのではなくて、子どもから学ぶんだということを教わりました。  子どもというのは、どんな子どもでも、まわりをよく見ていて、こちらをよくわかっているんですね。それをどう表現していいかわからない子どもは、たしかにいます。しかし、それをこちらがどう見るかが問題です。

通じない…

 私が大阪の病院に移ったとき、まだ大阪には子どもの精神科医はひとりもいなかったので、あちこちからいろんな子どもが紹介されてきて、いっしょに仕事をしている医者や臨床心理士、ソーシャルワーカーからも相談がありました。  あるとき、ひとりの臨床心理士が「いったい家でどんな生活をしているのかわからない」と言って首をかしげていたので、私が「家に行ってみたら?」と言うと、「それはソーシャルワーカーの仕事でしょう」とおっしゃる。私からしたら、それでは、ひとりの子どもの全存在をみることはできません。なかなか、そういうことが、そのころから通じなくなったように思います。

あなたのふつうでいい

 親の意識の問題も感じます。よく親の方から「どんなふうに対応したらいいんですか?」と聞かれます。私が「ふつうにしてたらいいんですよ」と言うと、「ふつうってどんなんですか?」と。「それは人によってちがうから、あなたのふつうでいいんです」と言うわけですが、まったく通じない。  たいての場合、そういう親御さんは、ご近所との交流がほとんどないんですね。子どものことで困ったことがあったとき、近所に子どもを育てた方がおられて「こういうときはこんなふうにしたのよ」とか、話し合えればいいのにと思います。そういうことがなくて、何かあると、医者に「どのように対応すればいいのか」と聞いてくる。なんで「対応」なのかと聞きたくなりますが(笑)。  いまの管理社会は一定の秩序を必要としますから、ちょっと変わった子どもは「ああいう子どもは困る」と、排除されがちです。そういうところから精神科医療に期待されることは何かと言えば、いかに子どもの能力を高めて、この管理社会でやっていけるようにするか、ということなんですね。しかし、それは、子どもを鋳型にはめこむことです。それが当たり前のこととして、ふつうに行なわれているわけです。子どもは、そういうなかで、自分の存在感がつかめないんだなと思います。

子どもと出会う

 子どもと出会うというのは、子どもを一人ひとり独立した存在として大切にするという、ごく当たり前のことです。しかし、いまの学校では、まず標準があって、それに合わせて子どもを均質化していくことが求められています。もっと、子どもの個性を発揮できるような場を増やしていかないといけません。いまの社会は、あまりにせせこましく、考え方までが狭い。ほんとうは、いろんな子どもがいていいんです。  私の住んでいる地域でも、おもしろい子がいました。彼は、よその家にパッと入って、かならずトイレに入るんです。トイレをみて「ここのは東洋陶器」「ここのは汚れている」「ここのはキレイ」とかぶつぶつ言って、帰っていく(笑)。ご近所の方は、みんな慣れたもので、「また来た。今日はなんて言って帰ってくれるの?」という具合に、受けとめていた。ところが、新しい人が引っ越してきたとき、中学生くらいの少年が、いきなり入ってきたものですから、びっくりして、すぐ警察に連絡されたんです。その後、近所の人から「あの子はね……」と教えてもらって、その方も「それなら早く教えてくださればいいのに」とおっしゃっていたそうです。  世の中にはいろんな人がいるわけで、一つのことでも、いろんな感じ方をする人がいる。それが世の中ですよね。そのちがいを、おたがいに付き合わせて生きている。そのなかで、いろんな気づきがあって、自分の世界をおたがいに広げていけるような、そういうつながりがあればなと、常々、思います。これは大人自身の問題です。  いま、教師も、医者も、子どもを十把一絡げにして捉えているように思います。しかも、ADHDだとか、LDだとか、いろんなレッテルが増えています。そういうレッテルから子どもを見てはいけないんです。そういうことがあっても、それは子どもの一つの側面にすぎません。ひとりの子どもには、いろんな側面があるわけです。それをレッテルを貼ってしまうと、一つの側面だけを見て、その見方しかできなくなるんです。  子どもは一人ひとりちがうんだという、ごく当たり前のこと、それが大人に求められていることのように私は思います。