「空気を読む」とか「KY」とか、イヤな言葉が流行っている。若々しい心身を持つ人たちがこの臆病な言葉にとり込まれるとはどうしたことだ! と七十老人のわたしは、すっかり腹を立てている。「そんなにムキにならずに。冗談、冗談」という声もあろうが、そうはいかない。自分ではふだん若者言葉に目くじらを立てるほうではないと思っているが、今回ばかりは「空気を読むを死語にする運動」を立ち上げたいと思うくらいだ。この言葉が「多数派の空気に従え」という陰湿な圧力を含んでいると思うからである。こんな言葉が流行する時代は、まさに危ない。
「空気読めよ!」という言葉の核心をわたしなりに翻訳してみるとこうなる。「力を持つ者の意向を察して、言われなくとも自分からそこに合わせろ」。これがもっとも当てはまる場面は、言わずと知れたイジメであろう。「あいつハズそうぜ」とはっきり言う者はいなくとも、以心伝心、大人にバレないようにイジメは進行する。そこに同調できない「不器用」な者やはっきりと別の考えを持つ者に、さきの言葉が投げられるのだ。強い者に自発的に服従する空気。あの戦争中が、まさにそうだった。この「問答無用」の風潮は、対話や議論を封じ人と人の対等な関係を阻む。
でも、相手の気持ちを「察する」ことは大切でしょうと言われるだろう。その通り、おたがいを「察しあう」行為はとても大事だ。弱者が強者の気持ちに敏感になるばかりでなく、教師が生徒の気持ちを、上司が部下の気持ちを、親が子どもの気持ちを察するからこそ、おたがいの関係は温かなものになるのだ。「あいつの気持ちも察してやろうよ」というように。だから「察する」にはやさしさが漂うが、「空気読め」には屈折した意地悪が匂う。
流行語は時代を反映する。「空気を読む」という言葉は、みごとに新自由主義とよばれる横暴な思想を映し出している。強者と弱者、自助努力、自己決定、不運も災難も自己責任、不満なら自己啓発で自己実現を。この貧困で残酷な思想は、「察しあう」というやさしさを受けつけない。察したら負けだとばかりに、立場の弱いものに慇懃無礼な服従を迫る。こんなみじめな思想を乗せた言葉を日常から追い払って、早くさっぱりと換気をしよう。
ところで、最近若い人から耳にする「人間関係スキル」という言葉も気になっている。人間関係とはまさに生身のものだから、マニュアル化はできない。体験を重ねて「そういうものか」と納得していくしかない。人間関係の作法を身につけるために年季が要るのは必然で、若いうちはそれが難しいのは当たり前なのだ。わたしは若いころ「まだ人との関わりかたがうまくできなくても当然。年上の人たちの作法を、よくも悪くも見覚えていけばいい」とのんきに思っていた。そして年上の人の電話などいつもそれとなく聴いていて、「なるほど、ああいうふうに言うんだ」と覚えていった。現在と何がちがうかといえば、見覚え聞き知る機会が身のまわりにたくさんあったこと、そして「まだ若いんだからできなくていい」が自他ともに許されていたことだ。だから未来に希望があった。大人になっていく楽しみもあった。現在はその自然さが失われ、若い人も「いまできなくてはいけない」と強く思わせられている。そんなことはない。ゆっくり年を重ねればいい。わからなければ信頼できる誰かに聞けばいい。若い人が希望をもってゆっくり年を重ねていける、そんな世の中をめざすこと。それがいま、わたしたち年長世代の最大の責任だと思っている。(日本社会臨床学会運営委員)
2008年3月1日『Fonte』掲載
論説特集「空気を読むな のんびり行こう」小沢牧子
(09-05-25)


