曾野綾子さんの産経新聞(10月29日)「正論」の文章「再び言う。教育は強制から始まる、と」を読んだ。ほかにも、この主張に関係のある『文春』10月号の座談会での発言や、すぐそれに次いで、「曾野綾子[分科会報告]全文」と称する異例の会議報告がある。
 最初の文章は、首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」での彼女の発案「学校での奉仕活動」の提案に対する世間のあれこれの批判に応えて書かれたものだ。
 問題の提案は、「小・中学校では2週間、高等学校では1カ月間、共同生活などによる奉仕活動を行う」とあり、将来的には、満18歳の国民すべてに1年間程度、行うというのである。彼女自身の上記の『文春』誌での発言によると、「奉仕活動」というのはボランティアとはまったく別のものである。「国家から、義務教育とか、健康保険とか国民年金を受け取る反対給付として、義務としての奉仕活動を行うべきだと、私は考えている」つまり国家への義務、子どもたちへの教育としての強制なのである。「教育は必ず強制の要素を含む」、奉仕活動を強制してなぜ悪いという。
 これは世の親が、自分の都合や自分の考えを子どもに押しつけるとき、これはお前のためだよという、あの「教育的」強制とも似ている。が、国家権力を背にした強制だから、ことさらに問題だ、と私は思う。しかし彼女は、そういう強制を通じてこそ、世間知らずに育つ今の子どもたちに「現世」を知らせる教育効果が期待できるというのだ。
 私も今日の子どもが世間から隔離して育っている現実を、大人の責任として重く受けとめてきた一人である。幼少から孤独で、本来の遊びの場(自然)と時間(ゆとり)を大人に奪われ、親離れの思春期に仲間がつくれず、自分が読めない。自己中心の閉塞状態、自分でもわけのわからぬ欲求不満(ムカツキ)に悩み、この社会で、居場所と出番を見つけかねている。いわば失業状態で、これは今の子どもたちの不幸であり、少年の悲劇的事件の多くは、これに起因すると思われる。
 問題は、こういう状況に追い込んだ大人社会の責任を棚上げにしておいて、国家への奉仕活動の強制で、子どもたちに覚醒を求めることだ。何とも危険で、かつ短絡的な対症療法で、私には承服できない。
 子どもは選んでこの世に生まれ出たわけではない。有無を言わせず、この世に生み落とされたと言ってもよい。親を選べず、地域や国土、むろん言語も選べない。彼らは健気にもその押しつけに耐えて、所詮は自ら選んで自分を創る。それがヒトの子の宿命である。人生は、すべて大人の「強制」に始まるのだ。
 障害をもった子どもを生んだ親たちが、ほとんど本能的な愛情とともに最初に感ずるあの「負い目」は、実は本来、世のすべての親の背負う子に対する愛と責務感覚ではないだろうか。曾野の文章では、こういう宿命的「強制」への「負い目」、つまり今の不幸な子どもたちへの大人の責務感覚は、ほとんど感じられない。
 曾野らの考えと、それに単純に反発して教育=「自発性」を強調するものの両者に欠けるものは、この重く深い責務感覚である。むずかしいことだが、この感覚があって、大人ははじめて、子への私心のない愛と、子どもの人としての権利の自覚へと導かれる。子どもの安全と社会への適応から強制を強いる場合であっても、それを単なる強制に終わらせない、まして権力への一方的服従に屈しさせないはどめ として働くのが、あの重い負い目、責務感覚にもとづく子どもの権利の尊重という意識であろう。
 残念ながら、曾野の文章にも、「中教審」や教育改革国民会議の提案のどこにも、子どもの権利は出てこない。子どもへの責務感覚があれば、子どもの自治による社会参加の機会を創り出す、すでに野にある多くの実践の援助推進を政府に迫る提案となるはずだ。せっかくの首相からの諮問だったのに、これらの提案は宛名をまちがえているのではないか。(日本子どもを守る会名誉会長)
※2000年12月15日号 不登校新聞 掲載