凶悪な殺人や暴力、痛ましい児童虐待など、私たちの社会では絶えることなく胸を塞がれるような事件が頻発している。そのたびに、事件に巻きこまれた人々が受けた傷の深さを思い、言葉を失ってしまう。誰もが幸福や平和を願いながら毎日を過ごしているのにもかかわらず、現実の社会には憎しみや怒りが満ちあふれている。どこでどのように暮らしていようとも、そうした否定的な感情から解放されることはなく、身辺から地球レベルにわたるまで飽きもせず、人はおたがいを傷つけあうことを繰り返している。
私たちの社会では、こうした悪しき状況を打開するために有効だと考えられる手段を取り入れてきた。怒りや憎しみの感情に駆られて行動し、法律を犯した者に対しては、刑罰によって制裁を加えるという方法が、そのもっともいい例である。施設に隔離収容することから、究極的な手段として加害者の生命を剥奪するという方法まで、罪の軽重によって周到にプログラムが組まれている。
そして犯罪行為は処罰によって落着し、次なる犯罪の抑止効果を有するととらえられる傾向がある。しかし、刑罰を加えることをもって事件が終結したとみなすのは、早計に過ぎると言わざるを得ない。人類の長い歴史の過程において、怨恨の情にもとづいて因果応報的な断罪が繰り返しなされてきたが、いかなる厳しい処罰によっても、犯罪が減少したという事実を私たちの社会は目撃していない。受刑者の再犯率の高さを見れば、刑罰が真の解決には結びつかず、犯罪の抑止力にもなっていないことは歴然としている。私たちが、真に共生的な社会を望むのであれば、感情的な対応とは異なる、より建設的な方向性をもった方法を見いだすことが求められると考える。
犯罪にしてもいじめにしても、被害者の立場に立つと加害者に対する怒りと憎しみの感情に支配されるのは当然のことだと思う。そして、加害者が何らかの懲戒を受けるのも至極当たり前のことである。しかし、そこですべてが終結したと判断しては、事態が改善することはなく、被害者の感情も癒されることはあるまい。加害者に対する激しい憤りは持続し、精神の安寧は中空に浮いたままになるであろう。加害者にしても、自らの行為を心から悔いたり被害者に対する謝罪の機会を逸し、真の反省につながらない怖れがある。
重要なことは、被害者、加害者双方の憎悪や憤怒の感情をいかにして軽減するかということである。攻撃的な感情に立脚した解決法の無用性を知り、より人智に根ざしたやり方によって痛みと苦悩を乗り越える可能性を探りたいものである。傷ついた心が癒されることもないまま放置され、十分なケアを受ける機会が保障されない社会を容認するならば、私たちはこれからも怒りと憎しみの渦のなかで悪あがきを続けることになるだけである。
加害者のほとんどは、かつて他者からの攻撃の被害者であった。その事実に目を向けるならば、被害者・加害者と二項対立式に分断して策を講じるのではなく、包括的な視点に立ってネガティブな感情を解き放とうとすることが極めて重要だと思う。長年にわたる怒りと憎しみの連鎖を、私たちが生きているこの時代に断ち切る手がかりを得ることを課題としたいものである。
アメリカ・アリゾナ州で30年ものあいだ、薬物中毒や犯罪者の更正に取り組んでいるアミティでは、入所者それぞれが抱えている心の傷に向き合い、さまざまな形で魂を癒す試みを続けてきた。その結果、犯罪の再犯率を下げるという実績を上げている。被害者の深い悲しみと、加害者の暗い情感からの出口を模索する市民有志が、そのアミティのスタッフを招き、4月上旬から中旬にかけて全国各地でワークショップを行った。そして、多くの人たちのあいだに感動が渦巻いた。そのことは、私たちのあいだに因果応報的な方法ではない、もっと人智にもとづいた対応法を希求する動きがあることを物語っている。アミティの試みは、私たちに大いに示唆を与えてくれるはずである。(スクールソーシャルワーカー)
『不登校新聞』2000年5月1日号


