1999年11月に起きた文京区の女児殺害事件について雑誌『正論』(2月号)に「教育家族の闇から」という20枚ほどの原稿を書いた。その後出てきた取材記事などを注意してみていたけれど、いまのところ、この文章を訂正する必要はないと思った。そのなかから繰り返し強調しておいてむだではあるまいと思える点を、いくつか記してみたい。
 2歳の女児を殺害したのが同じ2歳の女児を持つ母親であり、しかも母親どうしは「お受験」に熱心な母親の情報交換グループに属している、いわば「お仲間」であった。――これが事件の概要であり、特徴である。
 さて犯行の周辺を理解しうるために何を視野に入れておくべきであろうか。教育家族の煮つまりが極限に達したときに必然的に起こりうるできごとというのが、この犯罪に接したときの直観的な判断であった。したがって教育家族(中内敏夫の用語)についてのイメージをきちんと手に入れることが重要だと考えたのであった。
 教育家族を私は教育歴、学歴の差異にしか関心が持てなくなってしまったような家族のあり方という意味で使っている。教育家族は夫婦中心の家族ではなく、「子どもの進路は親が決めるものだ」というイデオロギーをベースに母子をセットに展開される家族のあり方である。
 教育家族はイデオロギー家族であるゆえに、家族の上に位置する家族のあり方である。家族は教育家族化するのである。教育家族は家族の上に位置する家族のあり方であるという点で、すべての家族にまったく平等に開かれている家族成功のチャンスである。すなわち一発逆転が起こりうるのだ。このことはきわめて大切なポイントである。どういうことか。家族の経済的、社会的な階層性の高低は決定的な意味を持ちえないということ、それらが輝くためには、わが子の教育歴の現在が決め手になるのである。極端な言い方をすれば、子どもが有名幼稚園、有名小学校に入学したという事実のほうが、生活水準や家柄よりも価値として高いのである。
 教育家族はイデオロギー家族であるという点で、どの家族も相似形である。言い換えれば、教育家族化した家族は、教育家族という面において入れ替え可能である。その意味で、教育家族化した家族は顔を失った家族である。
 教育家族は親の欲望によって営まれる家族であるため、「お受験」のように子どもを親の欲望の手段として使いがちである。子どもは親によって示される進路に黙従するだけという事態が生まれやすい。母親の子どもへの対応が、さまざまな早期教育に現れているように虐待の様相を帯びやすい。
 以上のことを踏まえるなら、家族の教育家族化の煮つまりが次のような状況に読みとれると思う。第1に、いわゆる名門校が集中している地域である点で、教育家族が集中する磁場があったこと。第2に、その磁場において「お受験」に熱心な母親の情報交換グループが形成され、二人の母親は同一グループに属していたこと。第3に、母親グループは、表面の親密さと裏腹に、内心では激しい競争意識から相互不信感を抱きやすくなる。第4に、そのグループの力学のなかで両者の対立が生まれたこと。以下のような構図を思い浮かべることができるだろう。グループの中心に二人の母親の緊迫した関係があり、その二人を囲むように他のメンバーが存在している。この構造は、一方をさげすみ、他方を持ち上げるというかたちで一方の敵意すなわち「心のぶつかりあい」の意識をあおり立てることに寄与したのではないか。(評論家)

※2000年1月15日 『不登校新聞』掲載