僕は、免許を取得して30数年になりますが、“無事故多違反”なんです(笑)。車がわりと好きなんで、整備はキチンとしてますし、自分の運転の技量もわかっている。でも、「スピード違反」で捕まっちゃったりするわけです。事故の危険性なんて、ほんとうは車の整備状態や運転手の技量などによって、一定ではないはずです。しかし、すべてのものに規制があって、それに合わせるのが正しい人生、“ふつう”の人生になっている。
僕はスピード違反で捕まったとき、「僕には犯罪性がないので、裁判を受けます」と言い、違反切符にはサインしませんでした。交通問題にかぎらず、もし自分に犯罪性や違反性がないという確信があった場合、キチンと第三者に判断を仰ぐのは当然のことです。一応日本というのは、法治国家ですからね。しかし、この第三者の存在を知らない人が多い。
これは学校も同じですよね。いまだに義務教育という言葉の意味さえ理解されていない。子どもが学校に行く義務があるんだと、なんとなく思ってしまっている。そうすると学校に行かない子どもたちは、スピード違反といっしょで、「違反」をしている子どもたちになってしまう。
ところが不思議なことに、憲法にはちょうど逆のこと、「どんな子どもでも教育を受ける権利がある」と書いてあるわけです。素直に憲法を読んだならば、義務教育で保障されているのは、子どもたちが学びたいというとき、大人はその場所を提供する義務があるということがあると書いてあるわけです。なおかつそれが無償だ、と。ところが、こんなすばらしい理想的な文章が受けいれられてない。
これって何だろう? こんなステキなことが憲法で保障されているのに、なんだかゴチャゴチャと騒いでいる。僕には、まるっきりわからない。ただ、わからないなりに僕が考えたのは、この風土の人々は、義務が好きなんだな、ということ。義務を遂行してほめられるということが好きなんだよね。それで、どうでもいいやと思ったのね。だって、趣味なんだもん(笑)。僕にはそういう趣味はないよ、っていうだけのこと。それが僕の結論なんだよね。
◎学校もある 豊かな人生
僕自身は、子どものときから、学校は重要じゃなかったのね。父親も母親もそうだった。学校というのは嫌いじゃなかったし、嫌いなときは休んでいたし、学校もある豊かな人生という感じだった。
僕の娘たちも同じことで、学校って全部を使う必要はない。学校の好きな部分だけ使ってきた。でも、それが許されない雰囲気が、学校には満ちているんだよね。
娘は高校に入ってから、学校をパスする割合が多くなってきて、1学期が終わったあたりで退学した。その翌日から、彼女はちょっと大人になった。つまり自分の暮らしがはじまった。それは、自分と社会との関係、その位置、力関係などを味わって、自分で対処することを肌身で感じたということなんだろうね。
彼女も僕も、学校を否定しているわけじゃ全然なくて、彼女はいまロンドンにいますが、ロンドンの学校にはまって、建築を勉強しているらしいのね。学校も利用しているだけのこと。すごく簡単なことなのに、学校問題がここまでゴチャゴチャしていて、文科省がなんだか答申をいっぱい出して騒いでいる。
◎絵本で教える?
僕は一応絵本作家ですが、これはまったく僕の趣味なんですね。ああいう表現が僕は大好きで、これは子どものためではなく、そういう表現が好きな人のために書いているだけなんです。たまたま、その趣味に乗る人に、わりと幼い連中が多かったというだけのこと。
ところが、たとえば編集者なんかが「これは子どもにはわかるんでしょうか」なんて言ってきたり、なかには「これは子どもに何を教えたいんですか?」って言う人までいる。そんなこと聞かれても、僕は「とくにないんです」と答えるほかない。
絵本の裏に「一人で読むなら2歳から」とかあるでしょう? 少なくとも僕の本に関しては、なるべく外してはもらっていますが。あれが営業的に効果があるというのね。「うちの子3歳なんですけど、いい本ないですか」と聞いたら、「あ、この本ですね」みたいな。そうなると、子どもが絵本を見るのはどういうことか、という基本のことは、もう宙に浮いてしまってる。
◎大人の描く絵は魅力的じゃない
僕は、ペインティング・ワークショップなんてのもやってるんだけど、そのなかで、大人だけが別に描いて、子どもの描いた絵と比べてみたことがある。そうすると、全然ちがう絵なんだよね。何しろ、乗りもセンスもエネルギーもプロセスもちがう。やっぱり大人の絵は恥ずかしくないかぎり、自分のエリアみたいなものがいろいろあって、ブロックになっちゃう。ガキはそんなことかまわず描くわけでしょ。結局、大人は魅力的じゃないのね。そういう絵を描く人が、子どもに何を指導するのかってね(笑)。
それから、絵に夢中になる子どもを見て、びっくりする親がいるんだよね。わりと抑圧されてる子なんかは、興奮して熱出ちゃったりするんだよね。あんまり楽しくて。べつに「お絵描き」をやってないわけじゃないんだよね。なかには「絵を描けない子を描けるようにしてあげましょう」なんてものまである。でも、「絵を描けない子」って、僕はすごい言い方だと思う。子どもは、描けないんじゃなくて、描かないんだよ。
たとえば、今この会場で、突然「編物をはじめます」って言われたら、うろたえちゃうよね。それを子どもは平気でやらされてるわけ。1時間目の国語の授業が終わると、2時間目はカエルの解剖をやります、なんてね。3時間目は歌です、「心をこめて唄いましょう」とか……。ほんとうに、子どもには人権がないのね。
給食を食べ残したら居残りとか、そういうところのどこに人権があるの? 朝の8時半に学校に来いという命令権はどこにあるんだろうか?
たとえば音楽の成績が1だとしたらさ、すごく簡単な解釈をすればいいわけじゃない。今学期やった音楽は自分には合わなかったってだけのことだよね。それができなくて劣等生と言われ、マラソンでお腹が痛くなって根性がないと言われ、すべてナイナイづくしでダメ人間、そういうことで、みんな苦労してる。この学校教育というものはいったい何だということを、柔軟に考えないとね。
◎自己判断をやめる人生
僕が小学校4年生のとき、教師に頭を叩かれたことがあってね。家に帰ってきて親父がそれを知って、親父は警察に行ったんだってね。それで、傷害事件で被害届を出した。学校問題とは全然関係ない、大人が子どもを傷害したという認識だった。
それで、かなり大騒ぎになって、教師は謝りに来たけど、なぜか俺が孤立していた。親父は覚悟の上だと言っていたけどね。学校や地域で不協和音が出るでしょう、と。もっとすごいのはウチの息子が悪かったのではないかというリクツまで出てくる。殴られても仕方なかったんじゃないかと身内に言われたら、子どもはもう逃げ場がないよね。
そうしたら、子どもは、自分でいたずらをしないで殴られない人生を歩むという指針しかないよね。それは、自己判断で生きるのはやめよう、ということなんだよね。そういう生き方を、子どものうちに学んでいる。だから、問題は親なんだよ。親がバカだと本当に子どもは大変なんだよな。
◎とりあえずって言うけど…
ほんとうに多くの中学生・高校生が学校を辞めてるのに、「とりあえず高校だけは辞めないで」って、どこから出てくるリクツだろうか? 「とりあえず、高校だけは出ておいて」って、どういう意味だろう?
そういうとき、学校の構造を教えてあげればいいと思う。学校というのはどんなに態度が悪くても、小中学校はクビにはならないよ、と。ところが教師は逆に脅迫に使うんだよね。お前そんなに態度悪いと2年に上げねえぞとかさ。だけど義務教育は子どもの権利なんだから、そんな脅迫は使っちゃいけないんだよ。明白な法律違反で、告訴しなくちゃいけないほど重要なことなのに、平気でやってる。
今は過渡期だと思いますね。気がつきはじめた人たちは、とっくに変わりはじめている。教育というのは、いい意味においてサービス業だという認識が出はじめてきた。これはすごいことだと思う。子どもたちの学習意欲に対するサービスの供給ですよ。
子どもが絵を描くとき、その前に誰も教えたことなんかないんだよね。学習してから行動するんじゃなくて、行動があって、そこで疑問で出てきて、そこから学習するんだよね。それを、教え導いて学習させないと行動しないんだと思い込んだのは、なぜなんだろう? 放っておいても動くというのでは、教師の仕事がなくなってしまう、ということでしかない。
◎あからさまになったこと
僕は趣味を尊重する人だから、義務が好きな人は、お上の命令のなかで素直に生きていけばいいと思いますよ。ただ、そういう生き方は好きじゃないという意見だったら、基本的人権を考えないと、法律では保障されてるのに、どんどんズラされていって、最終的には憲法の改正まで及んじゃうんでしょうね。
学校にかぎらず、いま、いろんなことが露呈して、あからさまになってきてるでしょう? 誤解を恐れずに言えば、今度のイラク戦争にしても、必要な戦争だったと思う。現場をビデオで流しながらやるぐらいふざけた戦争で、結局、戦争という産業があることが、メディアを通してあからさまに見えてしまったわけです。それから、国連がみんなの場じゃないことも、あからさまになった。歴史というものは、そうやって露呈していくものであって、いまの学校の問題とかも、露呈していってはじめて変化するものなのだろうなと思う。
今回の戦争では、国家というものは個人の幸せとは関係ないものだってことが、ごまかしようのないくらい明白になった。それと同じで、教育委員会や学校も、個々の人の幸せを考えているシステムではないんだよね。そんなこと、とっくにわかっていたのに、まだ多くの人が幻想を持っている。そのことについてハッキリ目覚めてしまったら、あとは簡単です。自分がしあわせになるしかないんだもん。
学校は使えるところなんだよ、という基準があればいい。そういう意識を子どもが持ってきたら学校は変わるし、今までのままでは通用しなくなる。一番ステキなのは、いろんなかたちの学校があることでしょうね。
◎若者たちは動きはじめている
僕は、悪意はどこにもないんだと思う。有事法制をつくったヤツも、悪意はないと思う。学校の先生が悪いんじゃない、校長が悪いんじゃない、文科省が悪いんじゃない。だから、犯人探しをしていても、やっぱり状況はよくならない。ただ、それとは自分は合わないよね、ということ。そういうふうに、いま若者が動きはじめている。それは、なるべく止めに入らないでほしいな。
よくよく考えてみたら、月曜日から金曜日までは死んだ顔で、土日だけがブレイクするという生き方は、ちょっと変です。その人たちが社会をつくっている。どうして自分が好きなもの、自分が得意なもの、自分がこだわれるもののなかで生きていくことができないんだろう?
学校を辞める若い人が多いのも、自分の好きなこと、自分がこだわれるもの以外には責任もてないという若者が多くなったということなんだろうね。時間をかけて少しずつ若者が考え、感じはじめてる。いま、僕のまわりにも、いろんな若者がいますけど、多くの若者が、自分が何をできるのか、何をしたいのかということを一生懸命考えてる。
それは、当然の現象なんだろうなという気がします。どんな時代だって問題はいっぱいあるわけだけど、今はいろんなものが見えたなと思う。僕は、今の世の中、いい時代だと思います。(抄録)


