2003年、Fonteでは、デビュー作「どついたるねん」(赤井英和主演)や人身売買問題を取り扱った『闇の子供たち』などで話題の阪本順治監督に取材をした。阪本さんは不登校も経験しており、その経緯や映画監督になってからの苦労をお聞きした。

――子ども時代は?

じいさんが代々からの仏師(仏像の彫刻家)で、小さいときから彫刻刀を持たされたり、いろんなものをつくることを教わってたんですね。だから、小さいときから、映画を観ていても「これどうやって撮ったんやろ?」って、裏方に興味を持ってました。

子どものころびっくりした映画は『天地創造』(1966年/監督・ジョン・ヒューストン)とかね。あのころはCG合成なんてないから、いろんなことやってるわけですよ。でも、それがこっちにはわからない。そのわからなさがおもしろかった。

――親はどんな感じでした?

店をやっていたから、両親とも朝早くから夜遅くまで働きづめで、一日顔を合わさないこともあった。おふくろは厳しかったですよ。俺が宿題で「歯を磨こう」っていうようなポスターを描いてたら、「こんなんアカン。描き直しなさい」って。もう夜の10時で「絵の具がない」って言ったら、「文具屋に電話するからシャッター空けてもらいなさい」って(笑)。いい加減にやっているのは許さない人でした。

――学校に行かなかったのはいつからですか?

高2の後半くらいかな。ずっと休んでたわけやないですけどね。友だちも一人くらいはいたけど、その子が家に遊びにきても居留守にしてたし、そういう拒絶してた感じでした。

――理由は?

なんか理想が高かったんやと思うわ。自分に対する期待とか。もっと勉強できるはず、もっと注目されるはず、そういうのがあって、ちょっとでも届かないと、もういいや、行かないって……。

当時は学校休むと「ズル休み」でしかないでしょう。だから最初は仮病で、それがバレたら今度は「イボコロリ」とか目薬を飲んで本当に腹痛くした。それもバレるとケガするしかないから、家の階段からダイビングしたり、文鎮で頭を殴ったりしてね。ガーンってやったらゲロ吐いて、病院行ったら頭蓋骨にヒビが入ってた。それぐらいして行きたくありませんでした。

――子どもって、そういう真剣さがありますよね

そういうことをしてる自分に気づいたとき、背中がゾーっとしたんですね。自分なりにヘルプ・ミーっだったんだけど、誰にも言わなかったし、親は「サボってる」という感覚だしね。結局、高校も大学も行ったんだけど、自問自答ばっかりしてました。そのときにハタと、あ、俺はものをつくるのが好きなんだって思ったんです。で、映画っていうものづくりが、一番、摩訶不思議だったんですね。

――不安や劣等感はありましたか?

じっとしてると、背筋がゾっとするとかね。その感覚はあったな。そこから一応は抜け出たけど、今でも戻りそうになる瞬間があります。

映画つくれなくなって、食っていかないといけないこととか考えるとゾっとしますよ。でも、目の前にやらなきゃいけないことがいっぱいあるから。不安とはおつきあいしていくだけ。

本当は、俺は監督に向いてないんだ(笑)。こういう人間が、40人くらいのスタッフと組んでやるわけでしょう。結局、みんなに担いでもらってるだけ。誰かがちょっと手を離すと、傾いたりするから、一応、監督ぶってないといけない。演じてるようなものだよね。飯おごったり、ケンカの仲裁したり……そういうの、向いてないね(笑)。

――映画の世界には、どのように?

20歳のときに東京に行って、松竹撮影所の近くに住んでエキストラをやってました。撮影が見られますからね。

映画監督になって感じたのは、何かに「なりたい」と思ったときに、「なりたい」じゃなくて「なる」って決めちゃうということ。決めちゃえば、あとはどれから準備すればいいか考えるだけだから。何ごとも、やるって決めちゃえばすごく気持ちが楽になるんだけどね。なれるまでやるということは、挫折がないのよ。そこに行くまで歩くっていうことだから。「なりたい」だと、イメージのなかに閉じこもってしまう。

俺は、「心技体」っていうのが嫌いでさ。「技体心」だと思ってるんだよ。技術、体力、心は最後でいい。心が先にありきだと悩んじゃう(笑)。考えてるのになんでできないんだろうって。だけど、技術を高めようっていうときは、自然と体力と気持ちがある。

――スランプとかは、ありますか?

スランプのない映画監督はいないよ。20年映画撮れない人もいるけど、それでも映画監督は映画監督だからね。監督になるまでは「苦労」だけど、デビューしたら「苦痛」がはじまるんだよ(笑)。

俺がまったく予想しなかった監督の仕事は「批評を受ける」こと。本当に痛い批評をいただくこともある。自分の映画が批判されるってことは、自分自身が批判されることと同じですからね。「坂本は終わった」とか……。でも、たまたま、それを書いた評論家と地下鉄の改札なんかで会うと、「あ、おはようございます」とかやってる自分がいるんだよ(笑)。人の目は、やっぱり気になりますね。

――今後、撮りたいテーマは?

わからないですね。やりたいものって、今やりたいことが終わらないとわからないんですよ。でも、1本終わると、次は真逆のものをやりたくなる。

いま45歳だけど、まだ若いうちに、自分が不得意だなと思う映画をやったほうがいいと思うんですね。つくり手が一番怖いのは、自己模倣です。「ああ、こないだの映画と似てたよね」って言われるのが一番力なくした証拠ですからね。

――「完成」はないわけですね?

常にやり切れてないっていう思いがあって、つまりは完璧に誤差のない球体を磨いているようなもんですね。あの黒澤明だって、アカデミー賞をもらったときに、「私はいまだに映画がわかりません」って言うんですからね(笑)。

――原点みたいなものはありますか?

人間って、思春期にできた記憶とかあるじゃない。風景とか。そういうもんを引きずっていくものだとしたら、そのころの自分の生理をもって大人になっていくんだと思います。

亡くなった深作欣仁さんなんか、戦後、思春期のころに死体の片付けとかさせられて、その記憶がずっとあるから、『バトルロワイアル』を撮ってるわけですよね。10代のときに何を経験したか、何を受けいれて、何を拒絶したか。そういうものがあればあるほど、ものづくりに自分の根をちゃんと持てる。何をやったって、どこか戻るところがあるんだよね。

――阪本さん自身は?

俺には、「性善説」をやることへの気持ち悪さがあるんだよね。人間ってこれだけすばらしいもんだって描いたとき、「俺はそんなこと声高らかに言うほどの人間か」って思っちゃう。

よく、若い子が履歴書持って俺の下で働きたいって来るんだけど、「映画監督になってどうしたいの?」って聞くと、「人に勇気と元気を与えたい」って言う。ちょっと待てよ、おまえそれほどの人間かよって(笑)。少なくとも俺は、人に勇気と元気を与えられない、というところからものをつくってる。そんな自負があったら、社会に出て、直接的に人の役に立つことやるよってね。

――不登校やひきこもりについては、どのように?

そういう人って、ある程度、理想は高いと思うんだよね。外の世界に自分が期待できるほどのものがないってことは、逆に期待があって、その裏返しかもしれない。物事を想像する力が大きいのかもしれないね。自問自答するヤツってのは、ものづくりに向いてるよ。

親戚に、ちょっと学校に行かなくなった子がいて、一回話してくれっていうから、「おい、お前そのまま続けろ。もし映画監督になりたいと思ったら、俺に言えばいいから」って言ったのね(笑)。

言語を自分のなかで飛び交わせるっていうのが文化のはじまりですからね。人とちがう環境にいることで、ちがう脳の鍛え方ができるんだから、それは何かには絶対活かせる。それが犯罪に向かったりする確率がどれくらいあるか知らないけど、犯罪を犯さない確率のほうを認めてやるべきだと思います。そういうことを、なんでみんなもっと言わないだろうと思いますね。

――ありがとうございました(聞き手・石井志昂)

プロフィール
(さかもと・じゅんじ)1958年、大阪府堺市生まれ。大学在学中に石井聰亙監督の「爆裂都市」の美術助手として映画界入り。89年に赤井英和主演の「どついたるねん」で監督デビューし、各種の映画賞の監督新人賞を受賞。ほかに「王手」「トカレフ」「傷だらけの天使」「顔」など、監督作多数。

※2003年12月15日 不登校新聞掲載