
今回、取材をしたのは映画「あしがらさん」の監督・飯田基晴さん。本作をつくるまでの経緯や、どんな思いで野宿生活30年のあしがらさんを撮っていたのか、お聞きした。
――ホームレスとのかかわりはいつからですか?
大学生のときに、原一男さんのシネマ塾に1年ぐらい関わっていたんです。実際の映画づくりはしませんでしたが、映像について学んでました。そのなかで、映像の世界でやっていくのは厳しいな、と映画監督の道はあきらめたんです。
ただ、何か撮ってみたいという気持ちがあって、好奇心のおもむくままに、いろんなところに足を運んでいました。そのとき、とくに関心が強かったのが野宿生活者です。彼らはなぜ野宿することになったのか、どんな状況で暮らし、どんな気持ちなのだろうか。自分の目で見て、出会って聞いてみたかった。最初は、個人的に立ち寄っていたのが、そのうちボランティアグループの人といっしょにまわるようになりました。ホームレスの方に関わっているうちに、映画より、話を聞くことに惹きつけられていったんです。
――どんな話が印象に残っていますか?
ボランティアメンバーの一人に、品のいい年配の女性がいたんです。荷物をいっぱい持って、たくさん着こんでいる人で、ホームレスをしている人だった。彼女は僕に「ご家族といっしょに暮らしてるの?」って聞いてきて、僕は「はい、いっしょです」と答えた。そしたら「いいわねえ」って。重い言葉だよね。そこらへんのおばちゃんに言われたんじゃないもの。彼女は、今晩どこで寝られるか、明日ご飯を食べられるかもわからない。僕と彼女ではあまりにも生活の状況に差がある。どうしてこんなことがあるんだろう、せめて少しでもお金の援助をした方がいいのかって、はじめの1カ月くらいはずいぶん考え込んだりしました。
それでも、関わり続けたくて、足を運んでました。そのうち、新宿のダンボール村は、僕がふらっと寄れる居場所になっていった。生活はしていないけど、行けば知り合いがいる。1時間半ぐらい、おばあちゃんの愚痴を聞いたときは、何が楽しくて通ってるんだろうとも思ったけど、気軽な場所としておじゃまできるところだった。
――「あしがらさん」を撮るきっかけは何ですか?
98年、新宿駅西口のダンボール村で火事が起きて、半分以上のダンボールハウスが焼けてしまった。ダンボール村に住んでいた夫婦がいて、奥さんは僕の大切な友だちでした。ふっくらした40代の女性で、ちょっと知的障害があって、とっても優しかった。彼女も含めて、4人が亡くなってしまった。
それまで親しい人の死に出くわした経験ってほとんどなく、路上で焼死っていうのはすっごくショックだった。ダンボール村の居心地のよさに、野宿生活の危うさを忘れてしまっていた。やっぱり不安定な場所だったって思い知らされた。あのダンボール村に入ると、人間のいろんな面が見えるけど、人間らしい温かさがある。なんとか、記録に残しておきたいと思いはじめた。そこで、撮りはじめたのがあしがらさんでした。
――3年数カ月の撮影中、あしがらさんは大きく変化していきいます。変化は予想されていたのでしょうか?
さすがに予想できないよね(笑)。だれも予想してなかった。あしがらさんは、誰も寄せ付けないし、コミニケーションをとろうとしない。僕自身も「きびしいよな」「どうしようもないな」と思ってた。あるとき、炊き出しでつくった豚汁をあしがらさんにあげたら、ガーッとかき込んで「あー、うまかったあ」と笑顔を見せてくれた。がんばってつくったものを受けとってほしいという僕の気持ちに、あしがらさんは喜びで返してくれた。この人だけは、わかりあえないと思っていたのは、僕の偏見だった。あの笑顔に気づかされたから、あしがらさんを撮ってみよう、もっと笑顔が見たいと思って、はじめたんです。
――あしがらさんの不器用さに共感したのでしょうか?
僕自身、不器用で人とコミュニケーション取るのがずっと苦手だったんです。今回、映画のパンフレットで初めて書いたんだけど、小中学生のころ数年間、父親は毎晩、グデングデンに酔っぱらって帰り、夫婦ゲンカをくり返していた。そのようすもイヤだったけど、次の日、みんなが何事もなかったかのように、ふるまっているのもイヤだった。どうして、みんな平気なんだ? って。それで、父親に対してはもちろん、ほかの人にも心を閉ざしていった。そのうち、人と近しくなりたいけど、すべがない。なんか、生きづらいよね、って思ってた。その先に出会ったのが、新宿の野宿生活者だった。
話は戻るけど、火事でなくなった僕の友人に、心の扉を開かせてもらった。以前、彼女が夫とうまくいってないときに、僕が話を聞いてたの。別にいいアドバイスなんてできないからさ、ただ聞いてるだけ。そしたら、なんか僕のほうも「彼女に別れ話を切り出されちゃって」、とポロっと言ったの。彼女、さっきまで、自分が話してたのに、僕のこと心配してくれて、励ましてくれた。すっごくうれしかった。自分のことをこれだけ気にしてくれる人がいる。それに気づいたら、心が通じ合っていくんだな、と。
彼女は、その1カ月後に火事でなくなってしまったから、よけいにショックだったんです。だから、僕が路上で出会った人たちから受けとったものをなんらかのかたちで伝えていきたかった。
――グループホームの必要性について、どうお考えですか。
あしがらさんもグループホームでずいぶん助かった。お世話になった「おもかげ舎」は、当時1軒だったのが、いまは3軒まで増えています。新しいスタッフも雇って、24時間体制にもなりました。だから、あしがらさん以上に手のかかる人も入れる。彼にかぎらず、路上生活から抜け出すたとき、多くの人にとって必要なものだと思う。
――今後はどんな活動をしたいのでしょうか?
やっぱり、自分がつくりたいものをつくっていきたいですね。いくつか、考えているなかに、子どもや若い人が撮れたらな、と。ここ数年、児童福祉のことも見届けてきたから、それを映像にできたらと思っています。映像化できるか、どうかはわからないけど、フリースクールなどにも、ぜひ遊びに行きたいですね。「あしがらさん」を多くの人に見てもらいたいけど、とくに若い人たちに見てもらえたらうれしいので、ビデオ貸し出しもしますよ。子どもたちから、意見が聞きたいし、フリースクールなどの関係者はご相談下さい。
それと、一人ではじめた「あしがらさんネットワーク」も、協力してくれる人がちらほら出てきてくれたんです。だから、ボランティアで手伝ってくれる人もさがしてます。なんか、お願いばっかりになっちゃたかな(笑)。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)
(いいだ・、もとはる)
1973年生まれ。95年、原一男監督の「CINEMA」塾に参加。その後、96年より新宿でボランティアとして野宿の人々と関わる。98年よりビデオ、テレビなどで野宿者の状況を発表。現在はフリーで映像制作を行なう。自主制作での長編ドキュメンタリー映画は「あしがらさん」がはじめて。
※2004年5月1日 不登校新聞掲載


