私たちの寺子屋方丈舎は福島県の会津若松市という小さな町にある。この町で適応指導教室、現在の方丈舎と10年間子どもとのつきあいを行なってきた。その私の技法は、1.子どもを徹底的に理解する、2.子どもと学びをつくる、3.不可能と思われることを可能にする、4.「性的な悩み」(下ネタとも誤解される)についてもタブーを設けない、5.自分の権利、人権意識を自覚できる関わりをする、6.自分の考えを徹底的に言語化し議論する。
私の技法は、自分自身の不登校体験、まったく言葉が通じないネパール、バングラデシュでの体験などによるところが大きい。とにかくわかりあうにはつきあうしかない。初めて方丈舎にきた子どもと私の関わりの多くは「つきあうこと」なのである。人間にはかならずおもしろい点がある。
学びについては、学校の教科学習にはまったく自分は興味ない。自分たちで考え、調べ、実践しながらつくる学びは非常に興味深い。ドイツの大学で歴史を勉強したいという子どもがいる。彼は高卒認定試験でどうしても英語が合格できない。ただ英語を勉強するのはつまらないから、アメリカの中学校の歴史教科書で勉強する。歴史といっしょに勉強できるので、それならば可能だという。
私たちスタッフの「大人」さは、もちろん子どもを規律や常識で縛ることではない。逆に規律や常識を壊しながら何を実現するかに価値があるように思う。ふだんの大人なら不可能だし、めんどうがるところを可能にすれば、もっと子どもは自分の可能性を広くとらえるにちがいない。
◎性の問題を徹底的に考える
「性」の問題はフリースペースでも学校でも同じだ。ただ学校では隠すがフリースペースでは隠せない。自分の「性」についての「欲求」や中途半端な知識は、混乱と差別(特に女性に)、商品化を肯定するものでしかない(かくいう私でさえ妻からすれば男性であるところに甘えていると言われる)。商品化されることを不快に思う女性と気に入られることしか考えていない男性の浅はかさを捉え直すのにフリースペースほどよい空間はない。徹底的に性を考える。意外と「生きる」という意味の「生」に結びつく場合がある。
日本の子どもの多くは学校で人権意識を育まれてはいない。むしろ自分の自尊心を奪われてきている。誰しも生まれながらにして「生きているだけで価値がある」存在という絶対的な人生を生きている。その絶対性を深く認識する子は他人を大切にするようになる。他人を大切に生きる子は自分の人生も大切に生きるのである。
私たちの活動の多くは学校で教師が行なうような指導のように「言語化」されたりマニュアル化されているものではない。むしろ、それぞれの創業者のすぐれた感覚、個性による部分が大きい。創業者は自分の個性をあえて言語化することを拒否してきた。もちろんいくら言語化したところで誰もまねができるものでもない。ただ言語化しないことでその価値まで低めてしまうことはない。
子どもの感情、感覚を含めて私は徹底して言語化するようにしている。子どもは言葉を獲得することによって「社会化」される。自分を主張することで他者とつながれる。だから、私は子どもの感情も含めた言語化を当事者とともに楽しんで行なっている。(江川和弥・寺子屋方丈舎)
※2006年3月15日 Fonte掲載


