
歌手をはじめ、女優、執筆業など、幅広く活躍しておられる加藤登紀子さんにお話をうかがった。ご自身の子ども時代のこと、ご両親とのこと、歌手としての思い、親としての思い、不登校についてなど、さまざまにお聞きした。
――子ども時代はどのように?
私は未熟児で産まれて、体が小さかったのね。小学校低学年のころは、体調を崩すこともあって、3分の1は欠席、遠足も運動会もなぜか出なかった。おまけに口をきかない子だったから、先生にもずいぶん心配された。だけど母は先生に「子どもには走るのが上手な子もいれば、雑巾がけが上手な子もいる。一人ひとりに得意なことを見つけてあげるほうがいい」と言ってくれました。
私は、算数少女で、計算をしていれば平和な気持ちだった。音楽は成績が悪くてね。だけど母は「算数や国語はできなくても生きていける。本当に幸せを運ぶのは音楽と体操と図工よ」って(笑)。
父は失業状態のときが多かったですね。開いていた歌謡学校がつぶれたりして、借金取りから電話があるくらいだった。でも、そのときでも家にはピアノがおいてあった。不思議な家ですよね。母も「どんなに貧乏をしていても、バターは本物を食べましょう。人絹やスフ(化学繊維)は着ないで純毛を着ましょう」って。でも、おかずがないときは川に草を摘みに行っていたぐらいで、貧しかったんですね。
家族は音楽一家で、イタリアオペラの放送の日は近所の家に家族で聞きに行ってました。でも、私は音楽の世界に近寄りたくない、という思いが強くてね……親子ってそんなものなのよね。いま思えば、父も母も素晴らしかったし、私を自由にしてくれたし、いい教育もしてくれた。けれども、子どもは親がしてくれたことに応えようとはなかなかならない。
第一、私の声は低くて、音楽は絶対ダメだと思っていた。ほんとうは音楽が好きなのに、うまくいかないと思うから、絶対にやりたくない。ずいぶん自分を抑え込んでいたと思います。
――歌手になるきっかけは?
大学生のころ、父が勝手にシャンソンコンクールに応募して、そのとき、審査員に「なかなかいい。また来年もいらっしゃい」って言われたのね。そこから火がつきはじめて、1年間レッスンを受けるうちに、歌手をやろう、と思いはじめました。
歌いはじめてからも、最初は作詞・作曲はしていなかったの。でも、ちょうどシンガーソングライターの草分け時代で、まわりのディレクターも「曲をつくれ。つくれないはずがない」と言う。それで四苦八苦してつくった『ひとり寝の子守歌』が、ヒットしたんです。
◎限界を出す喜びと苦しみ
でも、きつかったですね。自分で曲をつくる喜びはあるけど、同時に自分の限界も見える。そのギリギリの限界物を出す喜びと苦しみ。しかも、自分でつくった曲に対して、歌手としての私がうずうずしちゃう。こんなのじゃ満足できないって。
そうやって悩んでいるとき、母が「あら、世の中にはいい曲がたくさんあるじゃない」と言ってくれた。母には、私が無理をしているのが見えていたんでしょうね。それで、私は自分の曲もひとの曲も両方歌うことにしたんです。
――歌うことの原動力は?
いつも、自分の現状に対する不満があります。それがなかったら、一生懸命にならない(笑)。その不満は、根源的には日本人としての不安なんだと思います。
私はハルピンに生まれ、日本に引き揚げてきたわけで、家族もまわりと相容れない世界を持っていたし、私自身も、どうしても社会と相容れない自分を持っていました。歌手になってからも、芸能界という日本社会にぶつかった。
どこかで、日本人として半端だという感覚がある。だから、えらそうにシャンソンを歌えなかった。体に持っている響きや自分が使っている言語から生まれてくる音楽、日本人が持っているバイブレーションや心のあり方をつかまなければ、歌手としてやっていけない、と思ったんです。
◎もっとワクワクを
『知床旅情』や『ひとり寝の子守歌』を歌ったとき、みんなは拍手をしてくれた。私もやっと日本人になれた、と思えた。ところがね、それがイヤだったの。私の本質はこれじゃない、という思いが強かった。なんで日本人の歌はこんなにシンプルで寂しいのか、もっと躍動した曲がいい、と。
たとえば父が経営していたロシア料理店で働いていたロシア人たちを見ると、歌うために生活をしているって感じでしたね。お店が閉店すると毎晩飲んで歌って、結婚式では、一人が歌い出すとすぐに五部合唱ぐらいのハーモニーになる。そこから見ると、日本人の音楽は寂しい。
そんな思いがあって、世界中を旅しはじめました。そうすると、不思議なことにワクワクするほど、素晴らしいことに出会う。
◎どんな国の音楽も
コンプレックスを感じながらも、世界中で聞いた音楽をためにためて、いつのまにか練れたものが自分のなかにできているんですね。結局、自分の言葉と声で歌うかぎり、どんな国の音楽であろうと、私の音楽になっていく。
「音楽が世界共通の言語」というけれど、そう甘い方程式はなり立たない。けれども、たしかに言葉のコミュニケーションの難しさを越えていける力が音楽にはあると思う。音楽を通して、国境を越えた楽しい世界が見えてくるし、音楽をしていてよかったな、と思います。
――壁を越えるには何が必要と?
歌手はステージの上で全身をさらすわけです。それには、自分を理解できていないとできない。旅をはじめると、知らなかったことにぶつかるし、見知らぬ人と出会うなかで謎も見つかる。そこで通じ合うものを見つけるためには、自分自身を知る必要もあるし、相手の歴史や背景を知る必要もある。言葉で対話をすることも必要だけど、それでは足りなくて、音楽が必要になる。それをしながら歩いている感じです。
――言葉でも、日本語の「標準語」は力が弱いように思いますが?
それは根がない言葉だからでしょうね。方言は体の感じていることを音声にして出している。だけど標準語は感性じゃなくて、ロジックでつくられている。でも、自分が毎日、標準語を使っているかぎりは、この言葉で感情と音声とつなぎたいと思いますね。
◎子どもはすごい力を持っている
――3人のお子さんがいますが、どんな子育てを?
私は家にいないことが多いから、監督することはできなくて、自由にするしかなかった。3歳ぐらいになると偉そうな顔をするから「成人式をもうしちゃおうかしら」と思ったくらいです(笑)。
子どもと向き合っていると、子どもはすごい力を持っているなと思います。その意志をコントロールすることはできない。でも、その意志のありかが見えないと不安で、そういう悩みはありましたね。旅から帰ってくるとすぐには話してくれなくて、3日ぐらい家にいて、のんびりした時間があると「あのね」と話してくれる。だから、とにかく話ができる関係を持つことがいちばん大事でしたね。でも一人ずつ、それぞれ話しにくい時期もありましたけど。
◎不登校に期待
――不登校について一言
私ね、不登校に期待してるんですよ。いま、私がおもしろいと思っているのは、社会から外れている、あるいは外れていこうとする人なのね。私たちはなんとなく自由に生きたかった世代です。その子どもに不登校が多くて、私のまわりで芸術活動をする人たちには、とくに不登校が多い。親の尺度と学校の尺度がすでに合ってない(笑)。「親が学校とケンカしてくるようじゃ子どもが学校に行くわけないじゃない」と言って笑ったこともある。
今までは「学校に行くべきなのに行けない」あるいは「就職すべきなのにフリーター」とか、そういう発想ですよね。だけど、これまでのレールや価値尺度から外れることをネガティブに受けとるべきではないです。
日本には革命が起きていないけれども、古い価値はもうすでに挫折しているんです。その挫折から、どうやって日本が再生するのかを考えたとき、外れたところからしかないと思うのね。その外れたところを、社会の価値尺度に合わせてネガティブに見るんじゃなくて、自分の意識をポジティブに変えるべきだと思っています。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)
プロフィール
(かとう・ときこ)東京大学在学中に歌手活動に入る。『ひとり寝の子守歌』『知床旅情』など数多くのヒット曲を発表。2000年、UNEP(国連環境計画)親善大使に就任。今年3月小学館より『青い月のバラード』、平凡社より『ひとりぼっちはひとりじゃない』を同時出版。5月、30年にわたる沖縄愛唱歌を集大成したアルバム『沖縄情歌』を発表。今月23日にはシングル『あなたに』をリリースする。現在、コンサートツアー中。お問い合わせ先はトキコ・プランニング(℡03-3352-3875、URL:http://www.tokiko.com)
※2003年7月15日 不登校新聞掲載


