
今回は、『無痛文明論』の著者、森岡正博さんへのインタビューを掲載する。現在の社会の息苦しさはどこにあるのか、私たちは、そこから抜け出すことはできるのか、いまの社会のあり方と不登校・ひきこもりについてなど、お話をうかがった。
――無痛文明とは、どういうことなのでしょうか?
たとえば、いま、この部屋にクーラーを入れていますね。クーラーによって外の暑さから逃れ、快適な空間をつくりだしているわけですが、これは、まさに無痛化装置と言えます。無痛文明というのは、痛みや苦しみを避け続け、快適さを求める仕組みが社会にはりめぐらされていることを言っています。
無痛文明は、快適さを実現した反面、自分自身が変容していく喜びの可能性を失い、喜びの不感症となり、カプセルに包まれているような状態を生み出しました。多くの人が、そこに何かおかしさを感じつつも、抜け出す道が見えないまま、カプセルのテクノロジーのなかに入ってしまっている。
しかし、これには批判もあります。地球上の多くの人々は、無痛化どころか、目の前の死、飢餓や殺戮からどう抜け出せばよいかに必死じゃないか、と。それは、その通りです。
しかし、それと同時に、現在の日本や先進国では、物も時間も金もあるのに、イキイキと生きられていない、とても空しいという人が多勢いる。そして、そこにさまざまな症状があらわれ、無視できないほど大きな問題になっている。
貧しい人は貧しさによって、物を持つ者は、持つがゆえに苦しい。これは何なのか? 両極の現象を生みだしている根に、いまの文明のあり方の問題があるのではないかと思うのです。
無痛化社会のなかで、あらわれた症状は「心の問題」と解釈され、心のケアや精神医学の治療対象とされています。しかし、社会全体が無痛化しているのですから、文明全体の問題と対決する視点を抜きにしては、治療など、もはや無効です。みんなが無痛化社会の患者なのだから、患者どうしで、ワナから抜ける方法を考えるしかない。
――無痛文明は、急速に社会を覆ってしまったように思いますが?
私ぐらいの年齢だと、無痛化以前の生活も知っています。小さいときは、くみ取り式の便所でしたし、祖父母の家は山の中で、水は井戸水、洗濯は川でしていました。高知県だったので、夏は暑くて何もできず、みんな、ひたすらボーっとしているしかなかった。
それが、たった数十年で日本中が都市化してきているわけです。
しかし、無痛化の問題が難しいのは、ただ昔にもどればいいということではすまないんですね。それは、おそらく、昔に戻れるほど、我々の欲望は弱くはないだろうと思われるからです。
では、具体的にどうしたらよいのかといえば、非常に難しいですが、私は、都市に留まったまま、都市全体を変えていくという方向だろうと思っています。
◎生命の欲望
そのときにカギになるのは、私たちの欲望をもう一度見つめ直すことだと思っています。私は欲望を便宜的に二つに分けて考えています。ひとつは、苦しみを避け、気持ちのいいものに流れていこうとする欲望(身体の欲望)で、もうひとつは、未知のものに自分を開いてみたい、謎に向かっていくという欲望(生命の欲望)です。しかし、いまの社会では、生命の欲望はとても見えにくい。
――不登校を通じて感じることと、とても通じるものがあるように思いますが。
不登校というのは、自分のからだがNOサインを出しているわけでしょう。これは生命の欲望が反応しているのだと私は思います。学校というのは、それ自体が無痛化装置ですから、そこに毎日登校しなくてはならないことに対して、生命が悲鳴をあげている。それを、教師や親は「治療」すべきこととして捉えがちですが、見方を変えれば、社会全体が無痛化していることのほうが問題だと見えてくる。ですから、この違和感は貴重なチャンスと言えます。
もちろん、一般論では何も語れませんが、結局は、その人個人が、自分の大切な人とどう生きていくのかが大事ですから、その人本位で考えていくサポートシステムをつくって、試行錯誤していくしかないだろうと思います。
――ひきこもりについては、どのように?
ひきこもりにも、不登校と重なるようなことは、おおよそ言えると思います。つまり、無痛化している社会への違和感があって、それをシャットアウトしている。
不登校の場合は、無痛化装置が学校というかたちでありありと現れて、そこへ行けないというかたちになる。しかし、ひきこもりの場合は、それが社会全体となって、社会に「不登校」している状況になる。
私も、広い意味ではひきこもっていたことがあります。それまで、ものすごく優等生だったのが、大学に入った18歳から22歳ごろまで、アパートにひきこもっていました。起きるのは夕方で、寝るのは朝。夜通し、テレビを見たり、本を読んだり、ラジオを聞いたり、日記みたいなものを書いたりしていて、ほとんど人とは話しませんでした。
その後、はたからみれば非常にムダな数年を過ごしたあと、自分の本当にしたいことは哲学だと思いはじめました。生きるとはどういうことか、在るとはどういうことか、そういうことを考えるのが好きで、自分に向いている。そう思えてくると、まわりをそのために使っていこうと割り切れるようになってきました。
自分に即して言えば、ひきこもりは自分を模索できる時間なんだと思えたり、まわりがそう思えたら、何かのきっかけになるかもしれないと思います。
しかし過度に心遣いをされると、本人には重荷のこともあるし、親との関係は、いずれにしても、たいへんですよね。
◎地獄も人生
――親について、感じていることは?
世間に適応している親は、自然と条件付きの愛にはまってしまっています。気づかないうちに子どもにあれこれと条件をつけていて、子どもはその条件の部分に反応してしまう。不登校やひきこもりの背景には、そういうこともあると思います。
ひきこもっている人の親で「子どもが十数年もひきこもっていて、親は地獄です」という人もいますが、私は、地獄もひとつの人生だと思います。突き放した言い方ですが、無痛化に毒されている人は別の地獄を生きているわけですから。
知の力は、そういう突き放しをできることにあるのではないかと思います。
自己否定感を持つのもひとつのプロセスで、くぐり抜けると別のものが開けるし、安心したと思ったら、また苦しくなったり、そういうことのくり返しだと思います。人が深いところで抱えている問題は、比べようがないですしね。
親も、頭の理解ではなくて、ふっと変われるときが来れば、楽になれるかもしれませんね。
◎哲学者はアブ
私は、不登校・ひきこもり当事者のうち、ある割合の人は、哲学に向いているのではないかと思っています。
ソクラテスは、哲学者とは何かと聞かれ「社会という巨大な眠れる牛のまわりを飛びまわっているアブだ」と答えています。アブは、牛が眠りかけたらチクッと刺す。哲学の営みはそういうことに近い。社会から外れているからこそ、刺すことができる。
大きなものに対して疑問を持つことから逃れられない人は、その時点で哲学をしているんだと思います。そういう問いは、社会的にみれば、うっとうしいだけで何の役にも立たない。しかし、人の生きていくということについては、非常に大きなことをしている可能性がある。
――最後に一言
若い人で、頭ではわかっているのに流されてしまう自分はダメなんじゃないかと、自分を責めてしまう人がいます。しかし、どんなに頭で考えていても、機が熟さなければダメです。わかっているのにできないというときは、おそらく機が熟していないんです。自分のなかのいろんな経験や、まわりの人間関係や環境が変わったとか、そういうことが重なって、機は熟するのだと思います。いつ熟するかは、誰にもわからない。マニュアルはないわけです。
マニュアルをほしがるということも、無痛化にはまっていると言えます。逆に言えば、マニュアルがないことをどこまで自分で引き受けられるか。そこでは、自己との対話、生命との対話、時間との対話が必要になってくる。
正解はどこにもないわけです。ここに至れば安心というゴールがないということに、どう開き直ることができるかが問われています。だから、くりかえすしかないんですね。
――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平、町田道代)
■プロフィール
(もりおか・まさひろ)1958年高知県生まれ。研究テーマは生命学・哲学・科学論。従来の人文学の枠組みを大胆に改変し、領域を押し広げ、その著作は一作ごとに大きな反響を呼んでいる。著書に『生命学への招待―バイオエシックスを越えて』勁草書房、『生命観を問いなおす』筑摩書房、『無痛文明論』トランスビューなど。


