塩倉裕のひきこもりについてのていねいな仕事には頭が下がる(『引きこもる若者たち』『引きこもり』ともにビレッジセンター刊)。
けれど、ひきこもりの基本的理解という点において、塩倉と私とでは大きなちがいがある。
塩倉のひきこもりの定義は「対人関係と社会的活動からの撤退が本人の意図を超えて長期間続いている状態であり、家族とのみ対人関係を保持している場合を含む」というものである。
どこが私の理解と異なるのか? 塩倉がひきこもりを対人関係と社会関係からの撤退というように考えているところである。
これに対して私は自己間関係からの撤退というもう一つの局面を視野に入れることを提案した。
自己間関係――聞きなれない言葉であろう。文字どおり自分と自分の関係のことだ。
たとえばせっかく登校拒否して家にひきこもっても、ひきこもった本人が学校に行か(け)ず、ひきこもっている自分を許せない、だめな自分だと考えてしまう、そんな状態をイメージしてみよう。ひきこもっている自分を自分が肯定できない状態である。そのような場合、親がひきこもりを肯定し、子どもにいくら学校に行かなくてもあなたはあなたなのだからといっても、子どもはやすらぐことはできない。なぜなら自分が自分を許せないからだ。ひきこもった自分を許せない自分とは、ひきこもりを悪とみなす価値観をもった自分である。
こういう状態はひきこもりとしては正しくない状態である。正しくひきこもるためには、自分を責める自分、ひきこもる自分が許せない自分からも撤退しなくてはならない。そうしないかぎり、いつまでもひきこもっている本人がひきこもったことに罪悪感を覚え、それに囚われてしまう。果ては自傷行為にすすんで、いのちを断ってしまうところまで突き進みかねない。これでは、ひきこもった意味がない。
そこで正しくひきこもろうという提案になる。ひきこもった自分を肯定できるようになるためにひきこもりを悪とみなすような価値観を持つ自分からも撤退しようという提案をしたのだった(『ついていく父親』新潮社刊)。
よく耳にする質問がある。それは、わが子のひきこもりをとりあえずは肯定してもいいという気持ちにまで達した親御さんが、次にする質問である。では、いつになったら子どものひきこもりは終わるのでしょうか? 要するに、いつまで待てばいいのかという問いである。
こういう質問に対しては、それはひきこもっている本人が決めることですというのが、私の答えである。同時に映画『モンタナの風に抱かれて』(ロバート・レッドフォード監督・主演)をご覧になってみてくださいとすすめることにしている。というのはこの映画はひきこもった馬の話なのだが、ひきこもりについてどう考えるかを知るための最良の知識を与えてくれるからなのだ。そしていつ出てくるかはひきこもっているご本人が決めることですという答えは、実はこの映画のなかで出てくるセリフなのである。
ここには待つということの本質的な意味が語られている。つまり、ひきこもった本人が正しくひきこもりを終わりまで遂行できる時間が必要だということを語っているのである。
ひきこもりの子どもを持った親御さんが私に伝えてくれた例では、10年という時間はけっして最長ではない。しかもこれらの例のすべてが、わが子が自分のひきこもり体験を肯定的に受けとめ、それをバネにいまを力強く生きはじめているといったものばかりである。
ひきこもりの不可避な行程を存分に生きること、それが正しいひきこもりの姿だと思う。(評論家)
不登校新聞 2001年4月1日発行号


