
今回は、『地球をこわさない生き方の本』(岩波ジュニア新書)などの著者、槌田劭さんにお話をうかがった。槌田さんは、現在の文明社会は、それ自体ひとつのパニックだと語る。私たちは、地下資源が有限であるにもかかわらず爆発的にエネルギー消費を増大させ、生活は化学物質にまみれ、便利になればなるほど忙しく、生命を傷つけて生きてる。幅広い視野から鋭く現状を指摘するお話は、とても刺激に富んでいた。
――いまの文明社会は、端的に言うと、どこに問題があると?
いまの物豊かな文明社会は、地下資源を掘り起こして使うことで成り立っています。しかも、使う一方です。これは、きわめて刹那的で利己的です。本当に文明社会がいいことならば、未来の子どもたちに対してもいいことのはずです。しかし、資源は有限のもので、未来には行き詰まるのは明白です。そうであれば、これは、未来の人々に対しての犯罪行為です。
たとえば石油は何千万年、何億年の産物です。それを本格的に掘り出して100年、そして、あと数十年先にはなくなると言われている。これを経済的な問題として語ることはあっても、倫理的・道義的問題として語る人が少ない。
あるいは原子力発電であれば、死の灰、放射性物質ができる。その電気の恩恵を受けている人たちが放射能を浴びて苦しもうと、その時代を生きている人間の責任としては当然です。問題は、その苦しみ、その危険を未来に残してしまうということです。
一言で言えば、「豊かな」文明社会は基本的にまちがっているんです。
◎子どもから足下を問われた
ちょうどそういうことを考えはじめたころ、結婚して子どもが産まれ、自分自身が非常に愚かであることを、足下から教えられました。
まず、次男のアトピー性皮膚炎がありました。アトピーには、科学技術、専門的世界の犯罪性と愚かさが凝縮していると思います。
子どもを医者につれていくとき、医者が治してくれると期待するわけです。ところが、治らない。ステロイド剤(副腎皮質ホルモン剤)を塗ると一時的にはよくなるように見えるが、やめると以前よりひどくなっている。
あるとき、『月刊地域闘争』(現在は『むすぶ』)に、子どもの皮膚障害の大きな原因のひとつは合成洗剤だと書いてあり、合成洗剤をせっけんにかえてみたんです。すると、完治はしないまでも、著しくよくなったんですね。
公害に関心を持っているつもりの自分が、自分の子どもを大きく悩ませていた。非常に恥ずかしい思いでした。洗濯にしても、食事にしても、女房にまかせきりで当たり前と思っている自分は何なのか。自分たちの暮らしをかえりみて、どれほど化学物質が入り込んでいるか。
物事は日常の暮らしのなかから考えるべきで、リクツを立てて、自分は立派なんだと錯覚していてはまちがってしまうと、痛感しました。そして、そのころ、自分は科学者の道はやめると決めました。
――その後は?
1973年、「使い捨て時代を考える会」を立ち上げ、古紙回収と手づくり味噌づくりから活動をはじめました。
その直後に、オイルショックが起きて、いまの世の中の本質が露呈されたのです。しかし、結局あれはパニックでしかなかった。損をしたくないと思ってパニックになって、トイレットペーパーを買うのに行列ができた。明日どうなるかというとき、利害打算で目先のことしか考えることしかできない。
パニックは、本質を問わない。自分がどういう状況にいるのか、自らを問うことをしない。なぜ、オイルショックでうろたえたのか。それを考えることは、21世紀がどう進んでいくかを考えるうえでも、きわめて大事なことです。しかし、いまだに多くの人が不況脱出云々と、今も幻想を追っている。
◎科学技術パニックからの離脱
僕が科学者であることをやめたのは、科学技術パニックからの離脱なんです。科学技術が何ほど人間に幸福をもたらしたと思うのか。科学技術は、むしろ確実に人類を不幸と滅びの道に導きつつある。これは、ちょっと考えればわかるはずのことです。
たしかに、病気を治せるようにはなったかもしれない。一方では豊かな社会になって人権意識や民主主義が広がったかもしれない。しかし、この豊かな文明社会が崩れていったとき、どれほどの悲劇が起こることか。ほんとうに、いまの社会は豊かと言えるのか。冷静に考えるべきです。
――近代化のひとつに、機械化によって人間の時間を自由に使えるようにということがあると思いますが?
たとえば新幹線や高速道路ができ、いままでの半分、3分の1の時間で遠方に行けるようになった。それで人間にゆとりができたのかといえば、より忙しくなっているでしょう? 忙しく動きまわることが地位の象徴でさえある。「忙」は心を亡くすと書きます。なぜ忙しいかといえば、すべてを効率で動かすからです。このスピードの速さに乗れる人間と、乗れない人間がいるにもかかわらず、それに乗り遅れると損をする、乗れない人間はダメだと、みんなが思いこむ。これもパニックです。
教育もそうでしょう。なぜ京大や東大に入りたがるのか。京大にも東大にも不幸な顔をしている人はゴロゴロいますよ。「人材」などと言い、人間を資材と考えている。何のための資材かといえば、お金が動く社会のための資材です。私はこれを「金主主義」と呼んでいます。人間ではなく、お金が主人公になっている。
パニックというと、オイルショックのときのように、一時的な現象を思うかもしれませんが、人類の歴史数百万年に比べたら、数十年なんて瞬時ですよ。その瞬時のあいだにうろたえているわけです。現在のような状態にあることが、どれほど非人間的なことか。
――不登校についてはどのようにお考えですか?
私の長男も登校拒否でした。27年ほど前のことで、世間では、まだこの問題について白紙だったと思います。当時は登校拒否と言った。不登校という言葉を言いかえるだけでよいのでしょうか。理不尽なものは拒否する、それは当然だという見方をしないと、子どもは救われないのではないか。
長男が学校に行かなくなったとき、これは子どもの理性が反発しているのではなく、子どもの生命が反発しているのだと感じました。なぜか、朝になると熱が出る。何かの病気かと思って、検査で大学病院に3週間ほども入院したこともありました。しかし、何も悪いところはない。わからない。子どもをはかる能力が私になかった。いろんなことを考えているつもりでも、なおわかっていない。
しかし、学校に行かなくていいよ、今日は休もうというと、熱が下がる。それも体温計ではからないとわからないわけです。「拒否」という言葉も適当ではないかもしれないけど、心と体はひとつなんだ、理性と感性はひとつなんだと見たとき、その生命の全体として、学校を拒否しているのだと思います。
◎いのちは関係のなかにある
いのちとは何だろうという問題を生きることの根幹にすえて考えないといけない。個々のいのちは自立していると同時に共生している。関係のなかで生きているわけです。孤立しているものはかならず滅びる。他のいのちをうばっている、あるいは他のいのちに支えられているから、生きられるわけです。
しかも、生きるということは、三十数億年の遺伝子の流れであって、止むに止まれぬ運動なんです。しかし人間は、そういう本能と習性のなかで満足せず、目的意識的に自らの知性で世界を切りひらこうとした。ここに環境破壊の根源がある。人間が環境を改変し、人間だけが生きやすくすることの暴力性が、自分たちの首をもしめあげている。
――知性に問題があると?
人間の知性をいいことだと信じて疑わない。これもパニックです。これを疑うことが最高の知性ではないかと、私は逆説的に考えています。知性をいいことだと思っているうちは、人間中心主義を離れられない。資本主義も共産主義も、どちらも人間中心主義なわけです。
いま、人類のおかれている状況は絶望的です。人口にしても、エネルギー消費量にしても、倍々以上の速度で、超爆発的に増えている。これが続くはずがない。壁に激突すると思います。
◎絶望的であれ絶望するな
――不可避だと思うと、より刹那的になるのでは?
たとえば、私たちは、かならず死にますね。しかし、死ぬことを自覚したからといって自殺しますか? むしろ、事態を自覚していないからこそパニックだと言えるのではないですか?
絶望的だと認識することと、絶望することとはちがいます。絶望すると自殺しますが、絶望的だと認識することは、課題を認識しているんです。だから僕は、「絶望的であれ、絶望するな」と言っています。
――人間は知性とどのように向き合うべきと?
知性を捨てることはできないです。知性はすでに人間の属性になっている。しかし、人間は罪なる属性を持っていると思わないと、まちがいをしている自覚を持てない。
たとえば、釈迦は自分の欲望を絶とうと厳しい修行を重ねたあげく、断ち切れず、スジャータの乳粥を受けいれ、悟りをひらくわけです。いのちとは何かという矛盾を悟ったわけです。
他の生物をいただかないと自分は生きられないわけですから、生きること自体が不条理です。これをつきつめると自殺するしかない。しかし、自殺することが条理にかなっているとは誰も言えない。与えられたいのちをまっとうするしかない。
――最後に一言
私は、生き方を変えてきて、とても幸せなんですね。世間で標準的な「幸せ」につきあっていたときには、金も必要で不健康な生活だった。いまは、言いたいことを言い、したいことをさせてもらい、30年前と比べて、はるかに健康です。
人と意見がちがっても、力ずくで考えを変えようとは思わない。もし、力ずくで人の考えを変えようと思うなら、その人はブッシュがイラクでやっていることを認めないといけなくなる。
正義に酔いしれていると、他人や社会を変えたくなる。しかし、それは尊大なことです。社会を変えることは自分を変えることからはじまるし、自分と関わりのあるところから変わることです。力をもって世の中を変えていこうとすると、あるべき姿を先に立てて人を支配しようとすることになる。自分のできないことをできないと受けいれ、自分はちょぼちょぼなんだと自覚し、ちょぼちょぼなりに自分が幸せで、自分のまわりが少しでも幸せであれば、それで十分なんだと思います。
――ありがとうございました。(聞き手・山下耕平)
(つちだ・たかし)
1935年生まれ。京都大学工学部助教授を経て、現在京都精華大学教員。1973年、「使い捨て時代を考える会」を設立。著書に『共生の時代』(樹心社)、『歩く速度で暮らす』(太郎次郎社)『地球をこわさない生き方の本』(岩波ジュニア新書)など多数。
※2003年7月15日 不登校新聞掲載


