
今回は、作家の田口ランディさんにお話をうかがった。子ども時代のこと、寺山修司さんとの出会い、ひきこもっていたお兄さんのこと、家族のこと、など、さまざまなことについて、お聞きした。
――どんな子どもでしたか?
すごくボーっとしている子でした。いったい、みんなが何を合図に並んだり、授業をやめているのか、わからなかったんです。アレッと思うと、みんなは次の行動に移っている。みんなからは、一歩遅れちゃうんです。
記憶に残っているのは、小学校3年生の遠足。精神病院の下を通りかかったとき、入院患者の人たちが、鈴なりになって鉄格子に捕まって、じーっと下を見つめていた。あの人たちとは何かがちがう。だけど、何がちがうんだろう、と。その風景が忘れられず、人間の精神に興味を持ちはじめたんです。
――高校生のとき、寺山修司さんと出会い、影響を受けたそうですが?
本屋に入り浸って、興味のあるものを片っ端から読みあさっていたとき、寺山修司さんの『私の詩集』にぶち当たったんです。私と同じような女の子の詩が詩集になっている。うらやましくて、自分でも詩を書いてみたんですが、下手でね(笑)。どっかズレてるんですよ。だからなのか投稿しても詩集には選ばれない。代わりにファンレターをたくさん書いたんです。書くことが自体が楽しかったのかな。そしたら、手紙の返事より先に電話が来ました。寺山さんは「今度、本をつくりたいから、日曜日に新宿の京王プラザまで来てくれる?」って。私が茨城に住んでることとか、気にしないのよ(笑)。
その後も、思い出したかのように電話で呼ばれ、手伝ってました。自主製作映画を撮ったときは「ぴったりの男の子がいないから、中学校の前でスカウトしてきて」と。有名な芸術家、作家の人が、私みたいな田舎の女子高生に、スカウトを任せちゃう。すごいですよ。寺山さんに会うといつも帰りの電車で「すごかったな」と。
それまで、勉強もできないし、ほめられることもすくなかったから、私は「できない」と思い込んでいたんです。でも、人間って、まかされれば、できるもんだな、と気づかされました。
◎いろんな仕事を経て
――高卒後、上京してからの経緯を教えてください。
東京に行くのは、親がものすごく反対して「実家にいて、家計を助けろ」みたいなことを言われました。それだけは死んでもイヤだから、家出同然で、出てきたんです。仕事は、喫茶店のウェイトレス、英語教材の訪問販売、英会話教室のインストラクター、OL、ホステスといろんなことしました。22歳ぐらいのとき、いっしょに演劇やミニコミをしていた友だちが、急にリクルートスーツで就職活動をはじめるんです。私に「いまのままじゃ、将来ろくなことないぞ」とか、えらそうなこと言うんですよ。でも、たしかに考えなくてはいかんぞ、と。何をやりたいかを考えたら、やっぱり文章を書くことなの。
それで、エディタースクール(編集者養成学校)に入学しました。そこで先生からの評判がよくて「学校より実技を積んだほうがいい」と広告代理店を紹介してくれたんです。1年間働いたあとは、独立して編集プロダクションを運営していました。
◎ひきこもりの兄 家族のゴタゴタ
――長年ひきこもっていたお兄さんが亡くなったそうですが。
兄が何を考えていたのか、正確にはわかりません。ただ、兄が亡くなった一番の原因は、父親との葛藤に疲れ果てたんだと思っています。父は、気性が激しく、多動で、つねに緊張していて、声がでかいうえにアル中。悪い人ではないけど、独善的なの。この父に振りまわされて、兄は生きたいように生きられなかった。
ただ、私は正直に言って兄が迷惑でした。どう付き合っていいのか、さっぱりわからない。でも、見ていると苦しそうでせつなかった。カウンセラーや社会作業復帰所を紹介したけど、兄はぜんぶ拒否しました。
今になって拒否された理由がわかる気がします。あのとき、兄は体は動くけど、心はクタクタだった。それが私にはわからなかった。身体の病気でもなければ、うつ病でもない兄を、心のどこかで怠けていると思っていたんです。兄について考えを整理できたのは亡くなってからです。
――その後、家族との関係は?
問題の塊のような父と、夫婦生活にノイローゼみたいなっている母、それに私と兄の4人が家族です。誰一人、犯罪者ではないし、悪いことをしたいわけでもない。でも、心をうまくコントロールできず、ゴタゴタを起こしてしまう。
昔から、ゴタゴタが本当にイヤだった。なんとか自分の気持ちを立て直して、自己防衛するために、文章を書きはじめたんです。傷ついたときは、書いて表現して、状況を客観的に見る。ほんのちょっと自我を自分から遊離させれば、他人事のように見えてくる。
それでも耐えられず、私は家族から、逃れるように上京して、一線を引きました。そこに罪悪感があったんです。いつもぐちゃぐちゃしてる家族をなんとかしなければ、という思いがずーっとありました。
家族のなかで、ゴタゴタが起きたとき、自我まで巻き込まれるとかなりきつい。だけど、ちがう視点、書く視点で見れば、けっこうおもしろいんですよ。逆に「ふつう」でいるのもけっこうしんどそうに見えるんです。
いま、父は近所に住んでいます。私の娘も夫も協力的で、いっしょに父の面倒を見てくれています。いまでも、苦労させられますが、40歳を越えるとガマンできちゃうのね(笑)。
◎急ぐと失敗する
――ひきこもりについて、どう思われますか?
このごろ、10年単位で判断しないと、わからないよなあ、と。急ぎすぎたことはだいたい失敗する。私や家族は、兄の社会復帰をすごくあせって、短期間で決着させようとして、結果的に兄は死んでしまいました。
学校は6・3・3と進学して、時間的な区切りのなかで人を成長させるという共通の思いこみがある。でも、人間の成長は20~30年間のできごとなんです。いつまでに学校へ行き、いつまでに働く、という考えが強引です。
それから、ひきこもりや不登校は、単一家族の問題に見られがちです。しかし、その背後には、祖父母や親戚といった一族の問題が深くかかわっていると思っています。曾おじいさんが、おじいさんを育てるとき、価値観や考え方や悪いことも含めて、引き継がれていく。そのおじいさんがお父さんを育てるときに、背負ったものは濃なっていく。この積み重ねた「業」が子どもにぶつけられる。両親二人だけの業なんて子どもは跳ね返せる。子どもが跳ね返せないぐらいの「業」は3代前までさかのぼって考えないと。ルーツを解明してしまえば軽くなるでしょうね。業を担うのか、切るのかは、ある程度選択できます。
――ひきこもると「社会のなかで生きていけない」と悩みますが。
ひきこもっている人に重くのしかかる社会とは、親が仮想する「社会」です。さも社会を代弁するかのように、ふるまう親がくせ者なんです。その親をぶち破らないと、さまざまな文化や本質的な社会の奥深さに触れあえなくなってしまう。社会ってまんざら捨てたもんでもないなと、私は思っています。
◎別の世界認識もあるはず…
私も両親とは、だいぶ文化や価値観がちがいました。それに、いま認識している世界の居心地も悪い(笑)。この世界は、言語によってすべて組み立てられ、わかりきっている。別の世界の見方、考え方、認識のあり方が絶対にあるはずだ、と。でも私は、この世界で教育を受け、生きてきた。この世界の認識にしか立てず、ちがう世界は想像できない。けれども、少数民族のシャーマンなどは別の世界の見方をしている。いまの世界の見方もいいけど、もう一つか、二つぐらい、ほかの見方を獲得したいですね。
――「別の世界」を意識したのはいつごろですか?
8歳のとき、精神病院の風景を見たときから、感じていたことです。私、10歳まですごくボーっとしていて、頭のなかに霧がかかっているみたいだった。あるときから、霧が晴れて、合図がわかってきた。産婦人科のお医者さんには「吸引分娩の影響かもしれない」と言われました。でも、ボーっとしている生活は快適だった。たぶん、別の世界に生きていたんだろうな。ぼんやりしているというか、集中していたんだと思う。雲とか、音に気を取られると離れられなくなる。自分というものが緩くて、すぐ何かに入りこんでいく感じって、気持ちいいんです。でも、それは失われてしまった。そこに戻りたいんだと思います。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)
(たぐち・らんでぃ)
東京生まれ。作家・エッセイスト。人間の心の問題をテーマに幅広く執筆活動を展開。代表作に「コンセント」「アンテナ」「モザイク」(いずれも幻冬舎)、「できればムカつかずに生きたい」(新潮文庫)、近著に「聖地巡礼」(メディアファクトリー)「旅人の心得」(角川書店)「木霊」(サンマーク出版)「ほつれとむすぼれ」(角川書店)など多数。
※2004年3月15日 不登校新聞掲載

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